横浜米軍機墜落の記憶(中) 焼け散った楽園への夢
1975年に国連の統治領から独立を果たしたパプアニューギニアで、ホテルの支配人として働いていた椎葉寅生さん(76・緑区十日市場町在住)。「とにかく海がきれいで、潜るとサンゴの花が咲いていた」
3年間、日本と現地を行き来していた椎葉さんは、その自然に魅了された。家族もパプアニューギニアに移住する夢を膨らませていた。しかし、独立直後の現地は日に日に治安が悪化。椎葉さんはいったん日本に引き揚げ、旧緑区荏田町(現青葉区荏田北)の住まいで政情の安定を待った。引っ越して間もない自宅には、現地に持っていく荷物が段ボールのまま置かれ、椎葉さん一家は「楽園」への移住を待ちわびた。
◇ ◇ ◇
37年前の9月27日、荏田町に米軍機が墜落。椎葉さんの妻・悦子さん(当時35歳)は皮膚の3割以上がやけどを負う重傷に。事故当日、渋谷で金融関係の仕事をしていた椎葉さんは、悦子さんが搬送された青葉台病院から連絡を受ける。
「奥様をお預かりしているから、とにかくすぐに来てくれ、来てくれと、何がなんだか分からなかった」。急いで病院へ向かうタクシーの中で「椎葉悦子、全身やけどの重傷で重体」と臨時ニュースが流れた。「とにかく生きてくれ」。その一心で病院に向かった。病室にはベッドが2つ置かれ、2人とも包帯を巻かれて誰だか分からない。「ベッド脇に子どもが立っていて、(悦子だと)分かった」。全身やけどの重傷を負った悦子さんに、椎葉さんは「大丈夫か」と話しかけるが、返事はなくまばたきで合図するだけ。言葉を交わせない不安が続き、医師からも「2、3日が山場だ」と伝えられた。
◇ ◇ ◇
椎葉さんは病院を後にし、自宅を見に江田駅へ。墜落現場の駅周辺はロープが張られ立ち入り禁止に。警察官に「家の者だ」と伝えると、通行許可が出た。焼け焦げた匂い、柱だけの家が残り、パプアニューギニア行の段ボールも燃えた。「何も考えられなかった」
現場では米兵が飛行機の残骸を集めていた。カーキ色の作業服を着た人物が椎葉さんに近づいて声を掛ける。「補償を担当するものです」。名刺には横浜防衛施設局と記されていた。「何言ってんだこの野郎。墜落の原因も何もかもわからないのに、補償交渉などできない」と怒りをあらわにした。
「国の正義のなさ、事故原因を追究すること、支援者に応えるため」。回復してきた悦子さんも含め椎葉さん一家は事故から3年後、「国と米兵」を被告とする民事訴訟に踏み切る。7年の闘争の末、横浜地裁で「米国人にも日本の民事裁判権が及ぶ」との判決が出された。当時の新聞は「安保の壁に風穴が開いた」と報道も。勝訴だったが椎葉さんの心の震えは収まらない。「政府からも米軍からも正式な謝罪が一度もない。あの事件はまだ終わってない」。椎葉さんの自室には事故発生の午後1時20分頃を指したままの壁掛け時計が飾られている。
―続く
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