高津物語 連載第八八二回 「国定忠治」
国定忠治の知識を持ち合わせない。三木のり平「江戸むらさき」のテレビコマーシャルが印象に残る位。仕方なく高津図書館で関係本四冊を拝借。「無宿にして博徒、仁侠を以て鳴る国定忠治こと長岡半太郎が、幕末は嘉永三年師走、上野国大戸関所(現群馬県吾妻町)刑場で千五百人の観衆を前に壮絶な磔を演じた」(高橋敏『国定忠治』岩波新書)。国定村代官は、忠治が歯向かう御上を代表する羽倉外記小伝「赤城録」に依拠。忠治縄張場エリアは赤城四周盗区と称し、支配領主からの自立を意味した。天保七年関東は大変な飢饉で忠治は私財を投じ、飢民を救済した。翌年大々的に隣村田部井で博突を催し、その上りで溜池の磯沼を浚渫、下流の国定村は日照りの干害がなくなった。忠治のリーダーシップが発揮された好例である。天保七年年末、粉雪降る晩機業の街桐生新町豪商清右ヱ門宅を、国定村忠治名代文蔵の道中姿があった。餓えに泣く百姓共に、窮民救済資金金五十両を借用致したいと口上を述べた。清右ヱ門はツと立って切り餅二五両包二つを文蔵に差出し「親分さんの御心情よくわかりました。少々ですが御用立て下さい」と悪びれもせずに挨拶した。忠治の施しは「窮民に金一両米一俵麦一俵呉れ遣わし候」と大惣代渡辺三右衛門の日記にある、という。嘉永三年七月突然忠治に中風が襲う。口がきけなくなり、体は麻痺、目は一点を見つめるだけ、口から涎が垂れた。同志の田部井村名主宇右衛門の屋敷内で療養。兄貴分の盟友大前田栄五郎は「関東取締役の御縄を頂戴する前に、最後は自らを処断する事が肝要」と自決を進める。が、体は麻痺し、言語も明瞭さを欠いた。が忠治は従わず生きる事を選択、発病から三二日後の八月二四日に関東取締役出役が急襲し収監、悪党忠治を匿った罪で宇右衛門も江戸小塚原で刎(ふん)首(しゅ)。嘉永三年十月、厳重な警護の中を忠治一行の籠八挺は中山道板橋宿から、本郷通り、昌平橋、神田橋の御門前勘定奉行池田播磨守頼御役屋敷に送込まれた。囚獄石出帯刀の小伝馬町獄舎に入れられた。道々忠治は銭をつまみ出し、撒銭をし乍らの道中だったとか。
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