柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第29回 生麦事件の真相を探る(3)後編
今回は生麦事件について解説した第3回(後編)です。
〈生麦事件はどのような意味を持った事件であったのか〉
事件発生後、イギリス本国から命令を受けた代理公使ニールは、幕府に対し謝罪状と10万ポンド(当時の30万両=現在の約300億円弱か)の賠償金を、薩摩藩には殺害に加わった藩士の公開処刑と2万5千ポンド(当時の7万5千両=現在の約75億円)の巨額な賠償金を要求しました。
結局、翌年フランスの仲介により幕府は10万ポンドを支払うことになります。一方、がんとして要求を拒否した薩摩藩にはニールが7艘の艦隊を率いて鹿児島湾に侵入します。そこで始まったのが薩英戦争(薩摩藩とイギリスの戦争)でした。
【1】欧米諸国の力を見せつけられた薩英戦争
時は文久3年(1863年)8月15日早朝、イギリスは薩摩藩の軍艦3艘を拿捕。これに対し薩摩藩は砲撃を開始。大砲85門、砲弾は砲丸投げの球のようなもの(爆発しない)で飛距離約1000メートル。一方イギリス艦は艦砲総計101門、大砲を旋回できるアームストロング砲も備え付け、飛距離約4000メートル。さらに砲弾は爆発弾で当たった途端に爆発する優れものでした。
それでも薩摩藩は勇敢に戦い、桜島砲台から主力イギリス艦「ユーリアス」「パーシェーブ」に集中砲火をあびせ、1艘は錨を切って逃げ出す状態でした。その後、体勢を立て直したイギリス艦隊は薩摩の砲台を破壊し、さらに鹿児島市の市街地をロケット弾で攻撃し、民家410戸が焼かれてしまいます。
この戦いは戦力で大きな差がありました。薩摩からの砲弾はイギリスの艦船には届かず、逆にイギリス艦からの砲弾は遠く離れた陸地の鹿児島市街を焼き尽くしてしまったのです。結局薩摩藩はイギリスと講和し、賠償金2万5千ポンドを幕府からの借金で支払いました。しかしこの金額は明治維新などで返されることはなかったということです。また加害者の処罰は「捜索中」としたままうやむやにされたそうです。
【2】接近する薩摩とイギリス
薩英戦争はイギリスの死者11人、負傷者39人、薩摩側は死者5人、負傷者13人でした。かつて大英帝国の海軍がこれほどのダメージを受けたことがなく、イギリス議会では「日本人は中国や他のアジア諸国と異なり非常に優秀で、今後戦争という状況にならないように熟慮すべきである」という意見がでたり、さらに鹿児島市街の非武装の一般市民の家屋を破壊することなどは恥ずべき犯罪行為であり、この時のキューパー提督への非難決議までだされました。
一方、薩摩藩側はこの戦争で欧米諸国と国力に格段の差があることを身を持って体験し、攘夷の無謀さを知り、逆にイギリスに接近し欧米諸国の近代文明を積極的に取り入れようと考えました。イギリスも幕府より薩摩が今後の日本を背負う力になるのではないかと考え、薩摩藩からの留学生の受け入れを認めました。この動きをきっかけに薩摩藩は欧米諸国から軍事のみならず、産業をはじめとした近代文明の吸収に力を注ぐようになりました。
【3】加速する倒幕への歩み
一方長州藩は元治元年(1864年)、英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊と下関で戦火をまじえ大敗を喫し、これまた欧米諸国との国力の差を身をもって体験しました。薩摩・長州ともに攘夷の難しさを強く感じ、ともに日本の近代化の重要性を認識し、その力を倒幕、そして新しい近代国家の建設へと傾けていきました。生麦事件は明治という新しい時代に変化する6年前、日本の国が大きな方向転換をするきっかけとなった重要な出来事であったわけです。
※参考資料=「生麦事件と横浜の村」
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