柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第33回 蚕当計・乾湿計の発明とシーボルト
柿生は幕末期から明治・大正・昭和にかけて養蚕地帯として飛躍的な発展を遂げ、大正10年には養蚕戸数480戸で生産高は都筑郡の最高を記録しました。まさに近代の柿生・岡上の人々を支えたのは養蚕であったといっても過言ではないでしょう。
日本の養蚕は古くは弥生時代のころから行われていたということが「魏志倭人伝」にも書かれています。江戸時代には幕府や諸藩の財政立て直しのため養蚕業が奨励され、増産のためいかに養蚕技術を向上させるかということが課題となり、蚕種(蚕の卵)業者が中心となって多くの改良が試みられるようになりました。
享和2年(1802)、但馬の国(兵庫県)の上垣守国(うえがきもりくに)は気候や湿度管理などについて詳細に書き記した「養蚕秘録」を著しました。さらに岩代の国(福島県)の中村善右衛門は当時長崎にいたドイツ人・シーボルトの体温計にヒントを得て、苦心の末、ガラス管に水銀を入れて養蚕用の寒暖計「蚕当計(さんとうけい)」をつくりあげ、さらに養蚕上の温度に関する精密なデータをとり、その結果をまとめた「蚕当計秘訣」を著し、嘉永2年(1849)全国で販売しました。
一方、信濃の国(長野県)の清水金左衛門は、養蚕にとってもう一つの関門である湿度の測定用に「乾湿計」を明治6年(1873)に完成させ、「養蚕教弘禄」を著して温度、湿度管理の重要性と具体的な養蚕に関する技術指導書がたくさん出版され、さらに蚕当計や乾湿計の発明も相まって幕末から明治時代にかけて生糸の生産は飛躍的に伸び、養蚕農家を大いに潤しました。
また、これらの技術書は各国語に翻訳されてヨーロッパ諸国にも伝えられ、技術的、生産的にも大きな影響をもたらし、日本の技術が世界に広められました。なお、養蚕業は主に女性の手によって行われることが多く、各農家とも女性の経済的優位が生まれたようです。養蚕の盛んな群馬県の「かかあ殿下」などはそのあたりの裏の事情があるようです。さて、柿生・岡上はいかがだったのでしょうか。
「蚕当計(養蚕用の温度計)とシーボルト」と題し、ミニ実物歴史資料展を実施。「養蚕秘録」とフランス語に翻訳された養蚕秘録も展示。公開日は3月24日、4月6日、13日、20日、27日。会場は柿生郷土史料館(上麻生6の40の1/柿生中学校内)。時間は午前10時から午後3時まで。詳細は同史料館(【電話】044・988・0004)へ。
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