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明治初年、柿生にも起きた 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動を考える

公開:2013年11月15日

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廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動を考える

”首なし仏”が五月台・細山にも存在

 9月20日号で黒川の廃寺、金剛寺の跡にある廃仏毀釈運動による被害仏を紹介いたしましたが、麻生区の五月台と細山にも”首なし仏”があります。五月台の仏様は全部で6体で、たぶん明治初年に神仏分離令により廃寺となった古沢村の福正寺(真言宗)にあったものと考えられます。

 一方、細山の仏様は、現在香林寺の墓地の道路際でひっそりと4体たたずんでいらっしゃいます。やはり、いずれも頭部が欠損しており、間違いなく明治初年に被害にあったものと思われます。おそらくもともとは香林寺近くにあった延命院(真言宗)に置かれていたものであろうと思われますが、延命院自体が明治8年に廃寺となってしまいました。さらに昭和38年に開発のため跡地周辺は造成され、その時出土した遺物などは香林寺に移されました。この仏様たちもその時に一緒に移されたのではないかと推察されます。

廃仏毀釈の対象となった仏教宗派は?

 江戸期の地誌「新編武蔵国風土記稿」を調べますと、川崎市内の150カ寺中、密教系の真言・天台宗は73カ寺で半数近くを占めています。

 そのうち真言宗は47カ寺です。麻生区では24カ寺中、9カ寺が真言宗で占めていました。一方明治初年の廃仏毀釈で廃寺となった寺院は川崎市内11カ寺で、内訳は真言宗寺院が6、曹洞宗で4、浄土真宗1でした。地域別に見ますと麻生区5(うち真言宗は4カ寺)、川崎区3、宮前区2、中原区1ということがわかりました。

 この数字を見ますと麻生区の真言宗寺院の被害が一番多いことになります。これは何か深い理由がありそうです。麻生区内には王禅寺、東光院(いずれも真言宗)の古刹があり古くから真言宗勢力の強い地域であったようです。一方、真言密教とのつながりの強い修験(山伏(やまぶし))の力も広がっていたようです。今ではなくなっている栗木の和合院や細山の延命院も古くは修験であることが「風土記稿」に記述されています。

廃仏毀釈をしなければいけなかった理由は何?

 江戸時代に入ると神社に対して、寺院の優位性が非常に高くなってきました。それは、江戸初期のキリスト教禁止令が出されて以降、「寺請制度」が始まり、人々は必ず村のお寺に所属し、寺院との強いつながりを持つようになりました。したがって寺院は葬儀や仏教行事などにより安定した収入を得、特に大寺院などは広大な寺領を持ち、大きな力を維持することになりました。しかし仏教界内部では修行や学問もせず、お金で僧階(僧侶の資格)を取るなどの堕落した僧侶も多く出てきました。

 このような状況の中、各方面から強い批判が生まれました。例えば水戸藩・岡山藩等では17世紀中ごろから儒教思想や経済的理由で領内の寺院数を減らしたり、僧を農民に還俗(一般人に)させることが行われてきました。また神道の中からも神社から仏教的なものを取り除く動きも出てきました。さらに国学の考えをもとに、仏教流入以前の日本古来からの文化を尊重しようという考えが現れ、尊王論や廃仏にも繋がってきました。そして大きな理由となるものに、明治政府の近代化政策があります。明治初年は日本を近代国家として確立させることが大きな目的でもあり、非近代的なものを排斥しようという考えが強くなりました。例えば外国人の往来が多い東海道沿いにある鶴見の鶴見神社の田祭りは、非近代的であるという理由で禁止されました(現在は復活しています)。ですから祈祷や呪術などを行う寺院は前近代の象徴と捉えられ、これらを行う小規模な密教系寺院や修験は排斥の対象となったようです。

 このような事情から廃仏毀釈運動が「世直し」という雰囲気の中で高まりを見せたようですが、この動きは長続きせず、庶民や寺院からの反発もあり、短い期間で収束しますが、その被害は甚大なものでした。

(文:板倉)
 

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