柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第81回 秀吉の天下統一間近 その時麻生で起きた事は(2) NHK大河ドラマ「真田丸」の時代と麻生 前編
1589年の北条氏(後北条氏。鎌倉時代の北条とは異なる)による名胡桃(なぐるみ)城奪取は、沼田領を取り戻そうという真田昌幸による巧妙な策略であったのかもしれません。或いは全国平定を急ぐ秀吉による巧妙な罠であったのかもしれません。いずれにしろ、戦国大名の、あの手この手の調略合戦は凄まじかったようです。結果的にいえば、北条氏の名胡桃城奪取は関白秀吉が発令した戦国大名間の戦闘を禁止した「総無事令」違反であり、秀吉にとって北条氏攻略の大義名分がととのった絶好のチャンスともなりました。これは北条氏が、時代の趨勢を十分把握していなかったからとも考えられる出来事でした。
1590年(天正18年)4月、この事件がきっかけとなり秀吉の小田原征伐が始まりました。真田昌幸のもとにも、秀吉からの命令が届き、昌幸は信幸・信繁(幸村)とともに加賀の前田利家・越後の上杉景勝らの軍勢と合流し、上野(こうづけ)(現在の群馬県)に攻め込みました。松井田城・厩橋(うまやばし)城(現在の群馬県前橋市)・倉賀野城等北条方の城を立て続けに攻め落としました。さらに武蔵に南下し、現在の埼玉県の鉢形城・松山城・川越城さらに現在の東京都の八王子城も落とし小田原に到着します。さらに石田三成と合流し、忍城(おしじょう)(現在の埼玉県行田市)攻略中の7月に北条氏直が秀吉に投降し、北条氏は滅亡することになります。
さて、この小田原征伐は麻生にどのような影響を与えたのでしょうか。秀吉は同年4月に麻生郷の王禅寺村・片平之郷・万福寺村・古沢村・黒金(鉄)之郷・石川之郷・三輪之郷・荏田之郷・大棚之郷の九ケ所に宛てた禁制を出しています。これは上麻生の小島家が所蔵しているものです。この禁制は、秀吉が戦いの始まる前に、関係する郷村の有力者に与えたものです。秀吉は小田原攻めにあたり、「兵士には、住民に乱暴・狼藉・不当な言いがかりや命令・放火等をすることを厳禁しているので、同様なことが行われたら秀吉が厳罰に処する」という内容で、住民に安全を約束したお墨付きとして地域の有力者に与えたようです。ならばここでいう麻生郷における有力者とは果たして誰であったのでしょうか。この禁制には宛先は明記されていません。【次回へ続く】
参考資料:「川崎市史」「ふるさとは語る」 文:板倉敏郎
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