綾瀬の夏の風物詩「青年部花火大会」について、「いきいきまつりの花火」と思っている人が多いようだが、実は、祭りが花火にあわせて開催の時期を変更した歴史がある。今回はそんな花火大会の歴史に注目する。
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花火大会は「盆踊り大会」にルーツがある。青年部創立10周年の1976年、市内各地区で開かれていた盆踊りのフィナーレとして企画された。大会は翌年、翌々年と続き、「せっかく集まってくれた地域の皆様に、そのお礼として花火を打ち上げよう」と花火が企画された。部員の中に有資格者がいたため話はスムーズに進み、78年に青年部の花火大会は産声をあげた。
当初の花火は青年部部員の出資によるもの。正式な記録は残っていないが当時を知る人達によると30〜100発ほどの規模だったようだ。会場は綾瀬小学校グラウンド。打上げ許可を得る半径60m範囲内には10軒程度しか地権者がいなかった。当時青年部を担当していた同商工会の小俣敏男事務局長は「すぐそばで打ち上げていたから、真上に見えて迫力があった」と当時をふり返る。
その後83年には祭りの規模拡大などを理由に会場を「オレンジ広場」(現在の市民スポーツセンター地)に変更、84年には現在と同じ文化会館駐車場を会場に開かれた。同年には滝状に流す「ナイアガラ」や協賛企業の社名などを花火にする「仕掛け花火」なども登場。勢い増す花火は85年、「『みんなで上げる花火』にしよう」と、現在の協賛金による花火大会のスタイルが確率され、88年からは商工会の広報紙に協賛企業が紹介されるように。協力の幅は増し、90年には15000人の来場者を記録。協賛金も400万円以上集まり、この年は550発の花火を上げた。
すっかり夏の風物詩に定着した花火。93年からは祭りとの相乗効果でより多くの集客効果を求めようと、例年10月に開催されていた「市民まつり」を8月開催に変更。花火はついに1千発上げられるまでになった。2002年には2千発、市民8万人の街に10万人が来場するまでになった。
積み上げられた歴史の中にある花火は今年36回目。協賛金集めに奔走した青年部OBや親子2代で運営に携わる部員もいる。昨年の震災・計画停電による中止を乗り越え「今年は必ず花を咲かせる」と意気込む部員は現在協賛金集めに奔走している。
最新の情報は青年部ブログ【URL】http://u-40.seesaa.net/で配信している。