かつて半原の一大産業として栄えた撚糸業。その「糸の町」としての歴史を後世に伝えようと、愛川町半原の井上愛司さんが町に「撚り糸発祥の地」の石柱を寄贈した。3月18日には、除幕式が行われた。
寄贈された石柱は、愛川町半原にある愛川繊維会館「レインボープラザ」から徒歩5分ほどの中津川沿いの町有地(半原4433の4)に建立された。
高さは170cmで、御影石を使用。「撚り糸発祥の地半原」の文字は、小野澤豊町長が揮毫したものをそのまま忠実に刻印している。
除幕式には小野澤町長や佐藤照明教育長のほか、近隣の住民も参加した。井上さんは「皆様のおかげで建立することができ、私にとって最大の喜びの日」とあいさつ。小野澤町長は「思いを受け止め、書かせていただいた。多くの方に石柱をご覧いただき、糸の町の歴史がいつまでも引き継がれるよう願っています」と話した。寄贈者である井上さんには、町からの感謝状が贈られた。
井上さんは、12年ほど前まで「丸石撚糸合資会社」を経営し、繊維業の一役を担っていた。半原撚糸協同組合の幹事や常務理事など要職も務めた。「組合の会員数は、一時は300人以上だった」という。
海外製の安価な糸の出現で半原の撚糸業は徐々に衰退し、撚糸組合も2013年に解散となった。町では郷土資料館や工芸工房村、繊維会館などで糸の歴史を伝えているが、年代を重ねるごとに当時を知る人が少なくなっていく。井上さんは「半原が糸の町であることを後世に伝えていくのは、今を生きる人の役目だと思って寄贈させていただいた。形にしていけば、いつまでも残っていくからね」と思いを語る。
半原絹の歴史と今
半原の糸の歴史は、江戸時代まで遡る。
かつての半原村は、相模の三大養蚕地の一角として養蚕が盛んな土地だった。山間の土地だけに水田や畑作が困難だったこともあり、人々は農業だけでは立ち行かず、高価な絹の撚糸は副業として広まった。半原の地形が撚糸業に必要な一定の湿度を保つこともあり、江戸時代には「半原絹」が上等品として名を馳せた。
19世紀はじめに「八丁式撚糸機」が伝わり、飛躍的に生産の効率があがる。この撚糸機の動力に水車を活用する技術が生まれると、中津川に注ぐ多くの沢を利用して水車が作られ、水路が発達した。これら撚糸用の機械や器具の製造には、優れた技術を持つ半原の宮大工たちが大きく貢献したという。
現在、半原・田代地区の繊維業者は30件程となったが、町では「愛川ブランド」として繊維製品を幅広くPRし、販路の拡大を模索している。
建立された石柱の目の前には、石づくりの水路が清らかな水音をたてる。半原の山並みとともに、石柱が新たな語り部となり、土地の歴史と人々の思いを静かに語り継ぐ。
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