三浦の散歩道 〈第28回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
昔は、三浦市への出入りの手段には路線バスを使うことが唯一でしたが、鉄道がはじめて市内に入ったのは昭和41年(1966)7月7日のことです。今から46年も前のことです。京浜急行電鉄が上宮田に延長され、三浦海岸駅が出来たのです。市民の通勤、通学が大巾に拡大されたことはもちろんのこと、開通が夏のことで、特に三浦海岸の海水浴場は大変の賑わいをみせました。三浦海岸駅のすぐ近く、現在では「南下浦市民センター」になっている所を本営に「海防陣屋」が設けられたのは弘化4年(1847)のことで、江戸幕府は当時異国船の渡来に神経を使い、急いで江戸湾(東京湾)の防備に力を注いだのでした。そこで、彦根藩に三浦半島の警備を命じたのです。その時は浦賀千代ヶ崎から、相模湾側の荒崎や鎌倉の腰越など9箇所に砲台を築いたと言うことです。また、三崎の城山と原にも分営を設けました。その時の人員は2168人と言われ、財政的にも大変であったようです。ペリーが来航した嘉永6年(1853)に彦根藩から長州藩に交代をしています。この長州藩は善政を行ったということです。陣屋内に医師も居り、集団種痘も行われたと市内に残されている古文書にも書かれていると言うことです。ただ、安政2年(1855)10月2日に起った大地震で大きな被害がありました。鹿穴にある来福寺の境内に8人の藩士が葬られていますが、そのうち5人の藩士は地震による犠牲者です。この長州藩には、後に明治の元勲とされる、伊藤博文は16歳の頃で俊輔と呼ばれ、総奉行の益田越中に可愛がられていたとの話もあります。さらに木戸孝允も当時は桂小五郎と言っていた頃です。その後は、安政5年に熊本藩に代り、文久3年(1863)には佐倉藩へ交代となり、慶応3年(1867)に浦賀奉行所の所管となり、明治に入って姿を消して行きました。海防陣屋の規模としては総面積32、274平方メートル(9780坪)、建築面積5011平方メートル(1515・5坪)建物37棟と、言うことで現在の駅の辺りから海岸近くまでに及んでいたのでしょう。南下浦行政センターの入口には、当時を偲ばせる冠木門が復元され、建物の入口横には、昭和53年10月、当時の市長、野上義一氏の筆になる、「海防陣屋跡」の石碑があり、道路沿いの小高くなった所に、石碑が3基見えます。堤に上る所に、碑を見るときは、事務室に断るようにと貼り紙があるので、事務室に出向き、許可を得たところ「由緒ある海防陣屋跡地」の資料を頂戴しました。この地にお出かけになるときは、声をかけて、資料が貰えることを覚えておきましょう。さて、3基の碑のうち、2基は個人の慰霊碑です。いずれも「松原姓」の方で、中央の碑には「明治27、8年征清役従軍で戦死」の方。右側の碑は「明治10年西南伐討役に従軍して熊本県の田原(たばる)坂にて、27歳の若さで戦死」した方の慰霊碑です。いずれも明治29年の建立で、有志10名の氏名と他、240名とあります。向かって左側の碑は、表面に「日露戦役記念碑」とあり、昭和11年の建立で、当時の日本は戦争へと向かう時機で戦意高揚の気配があったのでしょうか。
つづく
「チェルSeaみうら」徹底解剖6月21日 |
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