三浦の散歩道 〈第70回〉 みうら観光ボランティアガイド協会
宮川に、お寺は「円覚寺」という浄土真宗の寺があります。この地区には、この宗派の方々が多いと聞いています。
かつては「一向宗」とも呼ばれていました。開祖は親鸞(しんらん)上人です。寺で祖師の忌日に開く法会を「報恩講」と言うのですが、この宮川地区では一般家庭でも、上人の法事を行うとのことで、それを「おとりこし」と言うのだそうです。
円覚寺の少し先きに「阿弥陀堂」があって、毎年1月15日には、若い衆が「おとりこし」をつとめていたとの話も聞いています。『三浦古尋録』の「宮川村」の項に、興味深い話が載っています。それは次のようなものです。
「此村ノ民家ニ身代リノ名号ト云ウ有リ」とあって、ある民家の妻女が一向宗の名号を熱心に信仰していました。昼は家事をこなし、夜になって「帰命尽十方無げ(むげ)光如来」の名号を薪(たきぎ)小屋の内に掛けて、名号を唱えてはお参りをしていました。この妻が毎夜人目を忍んで、薪小屋に通うことに、その亭主は不審に思って、ある日、後(あと)をつけて中を伺ってみると、何やら囁(ささや)く声がしたので、これはまさしく、密夫を隠(しの)ばせていたのだと思ひ、立ち帰って山刀を携行し、無二無三に刺し殺してしまった。女房は「あっ」と一声叫んで倒れ伏したのであった。亭主は山刀を差し貫いたまま、家に帰ってみると、室内で女房は針仕事をしているのであった。亭主は不思議に思って、これは狐狸のしわざではないかと思って、再び、火を掲(かか)げて薪小屋の中を見てみると、名号の「光」の字の処に、刀が差し通してあったのであった。このことがあってから、夫婦は心を合わせて信心し、名号を尊び敬ったという。宗門の人々も、これを伝え聞いて参詣するようになり、別堂を建て、その堂に名号を掛け置いた」という話です。この、お堂が「おとりこし」を行っていた所なのでしょうか。
かつての「宮川村」は明治8年(1875)に、「向ヶ崎・二町谷・東岡・中の町岡・原・宮川」の各村が合併して「六合村」となっています。
さらに、明治22年(1889)に、町村施行によって、「六合村」は、「三崎町の七町と城村」及び「城ケ島・諸磯・小網代」と合併して新たに「三崎町」となったのでした。
昭和30年(1955)「三浦市」が誕生した後の39年(1964)に、「六合地区」は新住居表示になり、「六合」の地名は風車のある「宮川公園」から北西へと向かい、広大な耕作地を経て、新しく併合した「三崎中学校」や「三崎警察署」のある地まで及んでいます。 次回は、かつての「原村」も含めて、「狭塚川」の上流へと足を運んでみましょう。つづく
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