腰越村八王子遠見番所 幕末期に異国船を監視
小動崎の展望台に立って西方を見渡すと、江の島により一部の視界が遮られるが、箱根連山から伊豆半島まで見渡すことができる。東側に目を移すと葉山、長井、荒崎を経て三浦半島の先端まで見ることができる。
さて、この小動崎には幕末、相模湾の海上交通を監視し、渡来する異国船の発見を目的とする「腰越村八王子遠見番所」が設置されていた。ペリー提督が来航した1853(嘉永6)年の頃には、西洋砲ホーイッスル・モルチール3基が据え付けられ、単なる監視施設ではなく軍事拠点の一つとなっていた。
その当時は彦根藩がここを管理し、藩士2名の番人と事あるときには幕府鉄砲方数名の武士が詰めた。そして、腰越村など近隣の漁民、農民も夫役として動員され、通報、接待などに当たった。
1858(安政5)年に日米修好通商条約が締結され、横浜が開港地に決定されると、海防の重点は品川や横浜近辺に移り、腰越村八王子遠見番所はその役目を終え、時期の記録はないが廃止に至った。
腰越村八王子遠見番所は、現在の小動神社の境内と隣接する私有地にあったが、現在まで残された建築上の遺構や遺物はない。なお、小動崎を南の海側から見ると洞穴が認められるが、これは米軍の相模湾上陸に備えた旧軍の遺構である。
三品和義
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