第二次大戦の終結から今年で70年。空襲など直接の被害を免れた鎌倉にも、戦争の爪痕が今なお残る。戦国時代、この地域を支配した玉縄北条氏の菩提寺として知られる市内植木の龍宝寺。ここでは、戦争という悲惨な現実の一端を垣間見ることができる。
特攻に散った命
県立フラワーセンターを過ぎ、トンネルを抜けてすぐの場所にある龍宝寺。元禄年間の創建とも伝わる山門をくぐり50mほど進むと、右手に石碑がある。
表面には「いざさらば 吾が身散るとも我が心 堅く護らん皇孫の國」の句が刻まれる。
これを詠んだ團野功雄さんは同寺の先々代住職、團野宗勝さんの5男。功雄さんは1944(昭和19)年10月29日、神風特別攻撃隊・至誠隊の隊長としてフィリピン・マニラ沖に出撃し帰らぬ人となった。「至誠隊」は、第六基地航空部隊において初めて編成された特攻隊だったとされる。
碑に刻まれているのは、功雄さんが出撃間際に詠んだ辞世の句。24歳だった。
「秘密の収容所」犠牲者を慰霊
さらにこの碑の左手にある小高い丘を登った場所には、「当山門前捕虜収容所物故者諸精霊菩提供養塔」の塔婆がまつられている。
これは戦時中、同寺の目の前にあった「大船収容所」(=左参照)で亡くなった、
連合国軍兵士を弔ったもの。大船収容所では、終戦までに数百人の捕虜が収容され、過酷な尋問が行われた。そして、病気や怪我などもあり、終戦までの間に、アメリカ人とノルウェー人の兵士ら6人が亡くなった。
先代住職が建立
これらの碑や塔婆を建てたのは、2000(平成12)年に亡くなった同寺の先代住職、團野弘之さんだ。
弘之さんは特攻隊員として亡くなった功雄さんの兄にあたる。
若くして戦場に命を散らした弟と、敵国として戦った兵士をともに弔った弘之さん。そこにはどのような思いがあったのだろうか。
現住職の梅田良光さん(41)は直接の血縁はないが、弘之さんの弟子として、晩年の2年間をともに過ごした。戦時中は日本政府の方針を現地で宣伝する「宣撫班」として、中国に渡った弘之さん。時折、中国での思い出を語ることはあったが、戦争に対する個人的な思いを口にすることはなかったという。
梅田さんは「仏教では亡くなった方は皆、仏になると言われています。戦争の犠牲になった方を等しくおまつりする気持ちだったのでは」と話す。
同寺では現在でも、毎年8月7日の施餓鬼法要の際に、6人の位牌をおまつりしている。
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