日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯の吉田茂語録 〈寄稿〉文/小川光夫 No.65
昭和21年(1946年)4月22日に幣原内閣が総辞職して吉田内閣が誕生したことにより、枢密院における憲法改正審査委員会が新たに再開した。この会議で林委員が吉田内閣に国の一大事である憲法制定を「何故このように急ぐのか」と質問したところ、吉田は「GHQはGo Home Quicklyの略語である」とユーモアを交えて答弁したことは以前述べた。吉田の発言は度々ユーモアがあり感心することが多い。第3次吉田内閣のときの対談の席上で、司会者が吉田政権について「任期いっぱいにやるのですか」の質問に対して「任期いっぱいやるって私が言っているのに、世間は解散・解散って騒でいるようですね。私がやる、という意味をかいさんのですね」と周囲を笑わせた。また少し肌寒い冬の総選挙の演説中、外套を着たまま演説する吉田茂に、野次馬の一人が「有権者に失礼だろう、外套(がいとう)ぐらい脱げ」の罵声に対して「外套を着てやるから街頭(がいとう)演説なのです」と拍手喝采を受けた。このように吉田の発言はユーモアがあるが、一方では物議を醸し出す要因となることも多い。後に述べるが、衆議院本会議で「自衛のための戦争までも放棄することはおかしい」という共産党野坂参三の第9条に関する質疑に対して、吉田が「国家防衛権による戦争は正当なりというが、それを認めることは有害である。近年の戦争は国家防衛権の名において行なわれた」と述べたことは、現在にいたっても第9条の解釈に混乱を与えている。この発言に対して、憲法議会における答弁を一手に引受けた憲法大臣金森徳次郎は、彼の著書『憲法遺言』の中で、「時の内閣総理大臣が幾分錯覚を起こしやすい説明をして、自衛戦争をも放棄したかのように人々の頭に影響を強く与えてしまった」と述べている。
ところで吉田自身は天皇の大権によって内閣総理大臣に任命された旧憲法(明治憲法)下の最後の人である。当時、吉田茂には議席もなく、鳩山一郎が公職追放されなければ吉田内閣は誕生することもなかった。吉田は、もともと牧野伸顕や大磯に住んでいた友人の原田熊雄から政治家向きでないといわれてきており、最初はたいした自信もなかったのであろうと思うが、政権を握ると鳩山一郎が帰ってきてもなかなか政権を渡さなかった。結局、吉田茂は1946年から1954年までに内閣総理大臣を五回もやっている。吉田茂の外務省の先輩であった幣原喜重郎も同じで、マッカーサーは幣原が高齢でよろよろとして転びそうになったのを見て「あれで内閣総理大臣は大丈夫であろうか」といって心配していたが、内閣総理大臣になると吉田茂同様に、幣原も鳩山一郎に政権を渡すことを拒んでいた。結局、幣原、吉田との間で犠牲になったのが鳩山一郎であったが、吉田茂の場合は、幣原とは違い内に秘める高い理想があり、政権獲得後は指導者としての自信が芽生えたような気がする。
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