日本国憲法の制定過程から学ぶ ソ連の侵略と南樺太 〈寄稿〉文/小川光夫 No.93
日本国憲法第15条3項の「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」と第66条2項の「内閣総理大臣その他の国務大臣は文民でなければならない」の2項は、ソ連が極東委員会で提案し、マッカーサーに要求してできたものである。北方領土が返還されているのならばともかく、南樺太及び千島列島を攻撃して北方4島を不当に支配し、北海道、東北地方の分割統治を要求したソ連の極東委員会での提案が今になっても憲法に残っていることに何か虚しい気持ちになるのは私だけであろうか。
北海道の最北端である稚内の宗谷岬からは、樺太が見えるが、かつては南樺太には約40万人もの日本人が住んでいた。もともとこの地には樺太アイヌが住んでいて中国大陸に渡って交易を行っていたが(択捉島や礼文島など北方四島にもアイヌがいた)、15世紀頃から松前藩が先住民を保護するようになった。それが19世紀に入ってロシアの海軍が樺太や北方領土に襲撃するようになった。
北海道で、観光バスに乗って留萌から稚内に旅行すると、必ずガイドさんが口にするのが「留萌沖の悲劇」と稚内公園にある「九人の乙女の碑」についてである。ところでアメリカは、ポツダム宣言を発する以前の7月10日から14日までに、「ファットマン」と同型の原爆実験用の「パンプキン」49個を日本各地に投下するなど原爆投下のための予備練習をしていた。そして8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆を投下した。その8月9日に、ソ連はヤルタ秘密協定に基づいて南樺太への侵攻を開始した。8月14日、日本がポツダム宣言を受諾すると、輸送船は南樺太から脱出する避難民を乗せて北海道へのピストン輸送を始める。8月20日、避難輸送にあった「小笠原丸」は、南樺太の大泊港から約1500名の引き揚げ者を乗せて小樽港へと向った。しかし「小笠原丸」は、小樽港に辿り着く前にソ連の潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没してしまった。しかも浮かび上がったソ連の潜水艦は助けを求める婦人や子ども達までも機銃掃射によって虐殺した。また、その日は引き揚げ船の「泰東丸」と「第二振興丸」も同様にソ連の潜水艦によって砲撃を受けた。「泰東丸」は沈没し、「第二振興丸」は大破したもののかろうじて留萌港に辿り着いた。このソ連の攻撃による「泰東丸」と「第二振興丸」の犠牲者は1200名に及ぶと云われている。また「九人の乙女の碑」についても悲しい話がある。8月9日、南樺太の国境はソ連軍の激しい攻撃を受け、樺太住民は疎開を開始した。しかし、南樺太の真岡郵便局は国防や緊急時の連絡など重要な使命を担っていたことから全員が疎開せず留まることを決心した。8月20日、ソ連軍の侵攻で真岡市街は戦火に包まれる。8月14日にポツダム宣言を受諾していた日本人は武器を放棄していたが、ソ連軍は怯むことなく残虐行為を繰り返した。電話交換業務を担当していた女性達9人も、ソ連軍の恐怖に震えていたが、しかし危機が迫っても死ぬまで交換台に着席して離れなかった。
ソ連軍の満州や南樺太などの侵攻による日本人の死者数は約30万人と云われているが、これはアメリカの原爆投下による死者数とかわらないのである。
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