日本国憲法の制定過程から学ぶ 大磯町の歴史をつくった人達 〈寄稿〉文/小川光夫 No.108
これまで、「日本国憲法の制定過程」を通して三井財閥、岩崎財閥、安田財閥、古河財閥などについても述べてきた。どの旧財閥家も初めから巨額な資本を持ってその地位を築いたのではなく、何処にでもある個人商店から始まった。やがて政府との結び付きを強くして大財閥にのし上がっていった。
大磯町のように約17k平方メートルという狭い面積に明治・大正・昭和にかけて政治や経済に関わった中心人物がこれほど多く住んでいた町は議員会館のある東京の永田町以外にはないだろう。その永田町といえども多くの政治家達が住みついたものの日本の経済を支えてきた旧財閥の邸宅や別荘があった訳ではない。その点、大磯は伊藤博文、大隈重信、山縣有朋、西園寺公望、吉田茂などの歴代内閣総理大臣や陸奥宗光、樺山愛輔、楢橋渡、白洲次郎などの多くの政治に関わった人物が住んでいただけでなく、三井総本家八郎右衛門高棟、岩崎弥之助、安田善次郎、古河市兵衛など旧財閥を創設した人達や三井を支えてきた池田成彬などが一号線を挟んで住んでいた。そのことからも大磯町は政治や経済の中枢としての役割を果たしてきたと言えるし、政治家や財閥家の休息の場として利用されてきたこともよく分かる。彼らの日本の政治や経済で果たした業績は輝かしいものであるが、しかし、それは残念ながら一般大衆からはあまり見えないところにあった。特に昭和の時代に活躍した吉田茂や楢橋渡、白洲次郎などが政治だけでなく憲法草案の作成にどのような関わりを持っていたかについては、あまり知られていない。楢橋渡が1946年2月に朝鮮人の李垠(イ・ワン=りぎん・・朝鮮李王朝の最後の皇帝)より滄浪閣を購入して住み、民政局の人達を招いて憲法草案の真意を確かめたことなどは大磯町に住んでいても知っている人はほとんどいないだろう。しかし、大磯町に住みあるいはそれに関わった吉田、楢橋、白洲などが日本の戦後の政治・経済に果たした役割は大きいし、彼らから学ぶことは非常に多い。私は、こうした人物が住み関わったことは大磯町にとって誇らしいことであり、また大磯町でだけでなく日本人は彼らの教訓を生かして未来を築いていく必要がある。私は大磯町が彼らの果たした苦労や役割、業績を若者に伝えそれらの事実が風化しないように大切に残して欲しいと思っている。
大磯町にとって忘れてはならない人は、まず吉田茂であろう。明治維新以後多くの政治家達や文豪が住んでいたが、彼はそうした有名人の誰よりも早くから大磯に住み、死ぬまで大磯に住んで政治を動かしていた。ちなみに吉田は大磯には明治20年から、新島襄は明治22年、樺山資紀は23年、伊藤博文は明治29年、西園寺公望は明治32年、池田成彬は大正6年から住んでいた。吉田茂邸が再建されることはほんとうに喜ばしいことである。
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