日本国憲法の制定過程から学ぶ 政治・経済の中心であった大磯町 〈寄稿〉文/小川光夫 No.109
明治・大正・昭和と三時代に渡って政治・経済を担ってきた人達が移り住んだのが大磯である。この地は逗子・鎌倉と同じように海が近く海水浴が可能であり、自然にも恵まれていることから保養地として、あるいは別荘地としては最高な場所であった。また程良い山が後方に聳えており、戦争や津波の際に逃げることも可能であった。
その大磯を全国に広めたのが松本順で、彼の大磯町に与えた功績は大きい。松本順といえば、特に大磯の海水浴場を広めたことで知られているが、実は彼は蘭方医で、幕末は徳川家茂の治療を行い、明治維新後は初代陸軍軍医総監になった人である。その海水浴場の大磯の玄関口が大磯駅であった。大磯駅は明治20年7月11日に開業したが、しかし大磯に鉄道が敷かれるには解決しなければならない問題も多々あった、という。当時「宿場に鉄道を設けると町が寂れる」、「外国の機械で日本の国土の土を踏ましめるのは怪しからん」という反対論があった。また山縣有朋を首班とする軍部より「幹線鉄道が東海道の沿線を通ることは、非常の際、海からの攻撃を受けるかも知れない」という意見や「平塚に駅ができるのならば、大磯の駅は不要なのではないか」などという意見もあった。これらの反対論を克服し開業に漕ぎ着けるには、大隈重信、伊藤博文等の並々ならぬ努力があったとされている。その大磯駅は大正13年の大地震で倒壊し、現在の建物は3度目の建物になる。写真は、初期の建物であり、後方の山には豊かな自然があり、別荘と思われる建物を見ることができる。また駅前にはロータリーがあっていかにも広々としている。この大磯町に多くの海水浴客や観光客がやってきて賑わった。当時東京駅から大磯駅までの所要時間は約2時間20分で、運賃は片道42銭8厘、お米が1升8銭の時代である(大磯駅記録より)。
大正・昭和にはその大磯駅の斜め右前には岩崎弥之助(現エリザベス・サンダース・ホーム)邸が、斜め左前には山口勝蔵邸が、またそのすぐ隣には旧三井守之助の別荘が、大磯駅を囲むように建ち並んでいた。この大磯駅を中心に日本を代表する多くの政治家達や財閥を築いた人達が、民衆と共に行き来したのである。
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