80年前の二・二六事件で、湯河原の光風荘を襲撃した河野壽大尉(享年28)の遺書が初公開される。事件以降所在が分からなくなっていたが、昨年7月に保管していた栃木県内の女性から光風荘保存会に寄せられた。
世に出ることなく行方不明に
遺書は事件から8日後、大尉が果物ナイフで自殺する直前に書いたもので、同志、陸軍大臣宛を含めた計3通が額装になっている。落ち着いた筆跡で「国民ハ太平ニ慣レテ社稷ヲ顧ス」「元老重臣財閥官僚軍閥ハ天寵ヲ恃ンテ専ラ私曲ヲ営ム」など国の前途を憂い、決起に至った気持ちを綴っているほか、結果的に「逆徒」とされた事について「悲ノ極ナリ」とも述懐。獄中の部下7名について「小官ノ命ニ服従セシノミニテ何等罪ナキ者ナリ」と慮り、「外敵」に備えるため早急な軍備の充実や空軍の独立なども提唱している。
大尉は遺書を通じて世論に訴えようと、死の前日に計3通を所属先の飛行学校の教官に託した。兄の司さん(故人)は弟の書いた遺書を書き写しており、戦後になって事件をテーマにした雑誌に掲載したが、直筆の3通は手渡されて以降行方不明となった。司氏は「公表を厳禁され、当局によって握りつぶされてしまったのでは」と分析している。
光風荘館内にはこれまで大尉が自殺で使った果物ナイフのほか、直筆の辞世の句が展示されていた。同館のガイドを務める観光ボランティアたちは「ぜひ遺族の方にも見てほしい」と話す。同館は土日の10時〜午後3時に公開されており、事件から80周年となる今月26日にも特別公開される。
二・二六事件(昭和11年)は陸軍の一部将校たちが国家改造を目指し、東京の官邸などを襲ったクーデター未遂事件。「君側の奸」とされた牧野伸顕伯爵が滞在していた湯河原の光風荘にも襲撃の手が伸び、この時8人の別働隊を率いたのが所沢飛行学校所属の河野大尉だった。大尉らは光風荘に火をかけ、護衛の巡査を殺害。駆けつけた地元消防団員なども負傷した。牧野伯爵は脱出に成功して河野大尉らの計画は失敗に終わった。撃たれた大尉らは熱海の陸軍衛戍病院(現在の国際医療福祉大付属病院)に入ったが、事件から8日後の3月5日午後、兄の司氏を通じて入手した果物ナイフ(光風荘館内に展示)を携えて病院を抜け出し、自殺を決行。近くの林で腹部を切り、頸部を数回突くなどしたが、ナイフは刃わたり7センチほどしかなく、大尉は十数時間以上経った翌朝に絶命した。
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