1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下されてから今年で72年が経つ。広島で原爆を体験した青葉区あざみ野在住の北川正博さん(86歳)=写真=に当時の話と平和への思いを聞いた。
北川さんは東京出身。父の転勤に伴い、44年の春に家族で広島に移住した。父は転勤で再び東京へと戻ったが、当時は東京への空襲が激しくなってきた頃。母、姉、弟と広島に残って暮らしていたという。
北川さんは当時14歳の中学生。空襲に備え、延焼被害を防ごうと市内中心部で東西100メートルにおよぶ空き地を作る作業があり、中学生のほか女学生、町内会の人など約1万人が駆り出された。北川さんの中学校同学年3クラスもこの作業に従事するが、北川さんの在籍する1クラスだけは中心部を離れて海軍の作業を手伝うことに。これが運命の分かれ道となった。
8月6日は月曜日。この日から海軍での作業が始まり、北川さんらは午前8時頃、広島駅から汽車に乗り北東部に向けて出発した。途中トンネル内で背中に感じたのは大きな衝撃。不思議だと思いつつ汽車がトンネルを抜けると、窓の外に大きな黒雲がもくもくと上っているのが見えた。原爆が投下されたと知ったのは一週間後だったという。
「広島が全滅した」
昼過ぎに「大空襲があり広島が全滅した」と聞いた。「さっきまで私たちも広島にいたのに」。その後、広島方面からボロボロになった電車に乗って大勢の負傷者がやって来た。彼らに状況を尋ねると「どこもやられた」という。信じられなかった。
夕方になって広島に戻る「町中の人がボロ切れをぶらさげて歩いていると思ったら、焼けただれた皮膚だった」。鰯を真っ黒に焼いたような死体もあちこちに転がり、踏まないように歩く。今振り返れば、凄惨な光景だが、北川さんは冷静だったことを覚えている。「初めて経験する空襲はこんなものかと。すごく悲惨だとも思わなかった。衝撃が強すぎて異常な心理状態になっていたのではないか」
自宅では、家の焼け跡で母と弟が待っていた。母は顔半分が焼けただれていたが、家族の無事にほっとした。しかし姉だけが戻らない。姉は市内中心部の大学図書館に勤めていたため「だめだったんだ」とあきらめにも似た思いを持ったという。一方、姉は無事に南部に逃れており、後に北川さんとも再開を果たす。そんな姉は61歳で悪性リンパ腺腫瘍で亡くなった。家族は原爆で浴びた放射線が原因だと考えている。
中心部で作業をしていた同じ中学校の生徒たち約400人は亡くなった。翌日、同じ中学校に通っていた下級生の母親から「うちの子はまだ戻りません」と言われ、どきっとした。「単なる情報だけではなく、『あなたはどこかでさぼっていたから生き残ったんでしょうね』という言葉の裏を感じて」。今でもその言葉は耳の中に鳴り響いている。
生き残りの思い
北川さんは原爆で生き残ったことに罪悪感があり、中学校の遺族会には顔を出すことができなかったと話す。転機は原爆投下から29年が経った頃。ほかの生存者とともに遺族会に出席すると、遺族たちからは歓声が上がった。周囲の声に「生き残った者として何かできることをしよう」と決意。99年、自分の経験や遺族の手記などを集めて原爆体験記を作った。インターネット上で閲覧できるほか、孫が翻訳した英語版が電子書籍化されている。
北川さんは「絶対に核はやってはいけない。多くの犠牲者が出たのに、再び戦前のような雰囲気になっているように感じる。平和が続いてほしい」と強い思いを語った。
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