中村さんは1941年12月の開戦時、家族6人で鶴見区で暮らしていたが、小学5年生になると学童疎開で現秦野市へ。終戦間近の45年6月、小学6年生の時に家族6人で韓国釜山に渡った。
釜山郊外には祖母が一人暮らしをしていて心配だったことと、他の親戚の家は疎開先には向かなかったため、釜山行きを決めたという。しかし、連絡船に乗ろうにもどこもアメリカの攻撃を受けており、最終的に山口県の仙崎から渡った。鶴見区の家を出て約1カ月後のことだった。「辺りは飛行機や潜水艦ばかりで真っ暗な海の上を敵に見つからないかハラハラしながら船に乗っていた」と恐怖を語る。
当時日本の占領下にあった韓国では兄弟3人で日本人学校へ。幸いにも食事には困らず、戦争に直接関わることもなかったが、自宅近くの川に特攻隊が不時着するなど、戦争の不安からは逃れられなかった。
敗戦は勘付いた
自宅にラジオはなく、突然家中の金品を略奪されるなど、現地の人の反応が変わったことで敗戦に勘付いた。その後学校で終戦を聞かされた。父から日本はアメリカ本土に爆弾を落とせていないと聞いていたので「やっぱりねって思った」。
終戦翌月に妹が誕生。日本への帰国時はまだ生後3カ月だったこともあり、過酷な距離に「帰るのに足手まといになる」と家族内では妹をあきらめることもよぎった。しかし、当時小学1年生の弟が「それならみんなで飛び込もう(死のう)」といい、小さい体で妹を背負い、祖母と妹を含めた8人で帰ってきた。
戦後75年。「当時は戦争反対なんて口にすることはできなかった。戦争をすれば国民が疲弊する。二度とやってはいけない」と力強く語った。
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