港北区篠原東に住む原田祥子さん(83)は1945年、出身地の福岡県大牟田市で8歳の時に戦火に巻き込まれ「三度の命拾いをした」という。
一度目の命拾いは、自宅に爆弾が落下したとき。空襲警報や予告が一切なく、突然着弾したという。「爆弾は居間から離れた炊事場の井戸に落ちたので、なんとか家族全員助かった。大人が必死で消火にあたり、私はまだ幼かった妹を抱っこして、姉と防空壕で震えていた」と回想する。
母の英断で九死に一生
防空壕で二度目の命拾いを経験した。避難したのは50メートルほどの細長い防空壕で、原田さん一家は南側の端に待機していた。すし詰め状態の防空壕にやっとの思いで入ったが、母が「東側に移動する」と言う。姉と不満を言うも母の剣幕に気圧され、一旦地上へ。「走りなさい!」という母の声を背中に東側の入口まで必死で走り、防空壕に滑り込んだ直後、南側の入口に爆弾が直撃。南側半分が壊滅した。「話すと今でも膝が震える」と原田さん。「母は、地形的に南側から敵襲が来ると直感したのではないか」と推測する。
三度目の命拾いは、疎開先で起こった。親戚宅で蚕の世話をしていた原田さんは、餌用の葉を摘みに桑畑に出かけた。仕事を終え立ち上がると、一帯に偵察機のエンジン音が響いた。原田さんは集めた桑の葉をとっさに被り、身を屈めて息を殺していたという。「あの嫌な音が今でも耳にこびりついている」。帰宅後、母に桑畑でのことを話すと、よく無事でいてくれたと抱きしめられ、家族で号泣した。
原田さんは最後、戦後75年経った今でも世界で紛争が続くことに触れつつ「今後、何があっても戦争は絶対にいけない」と語った。
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