都筑区在住の河井信子さんは1931(昭和6)年、豊島区雑司ヶ谷の鬼子母神堂の近くで生まれた。父が警察官だった関係で、南千住、神田、丸の内など都内を毎年のように移り住んだ。
神田に住んでいた頃、初めて飛行機が編隊で飛ぶのを見た。「『あっ、飛行機だ!』って喜んで見ていました。今思えば偵察機だったのかも」と振り返る。戦争の足音が近づいてきたと感じたのは41年。警察の体制が変わり、都内を東西南北に分け、河井さんの父は大森、鎌田、品川などをエリアとする南部の担当となり、大森へ移り住んだ。この年の12月8日、真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦となった。
不気味な照明弾
女学校に入学し、大森から市ヶ谷まで通学していた。英語の授業は、「敵性語」だとしてすぐに中止に。「ディス・イズ・ア・ペンしか習わなかった」と笑う。当時、有識者の中には、敵を知るために英語の授業や使用を禁止せず、習わせた方が良いという意見もあったが、大勢ではなかった。「後から知りましたが、今から思うと、そういう意見もあるなと感じます」
小柄な体格の河井さんは「周りの人が親切だったおかげで生き残れたようなもの」と感謝する。
通学途中の東京駅で空襲警報が鳴り、逃げ惑う人の中で、見ず知らずの人が手を引いて地下鉄の構内へ誘導して助けてくれた。母の実家の山梨に疎開していた弟妹らに物資を届ける際には、河井さんをひょいと持ち上げ、混んでいる電車の窓から乗せてくれる人も。山梨から大森まで帰る途中、新宿が空襲に遭い手前で電車が止まってしまい帰れなくなった時は、乗り換え線まで連れて行ってくれた人もいた。「小柄だったので子どもだと思われたのかもしれませんが、世の中、本当に悪い人などいないのだなと感じました」
何もかもが見渡せ 「透き通るように明るい」と感じた照明弾は、その明るさに加え、ひらひらと舞い落ちてくる姿に不気味さを感じ、恐怖を覚えたという。対岸の向島を火の海にした東京大空襲。何日もしないうちに大森にも爆弾の雨が降った。「逃げた場所が数メートルずれていたら…よくぞ生き残ったと思う」。爆弾が落ちた衝撃で大森駅前にはすり鉢状の穴が開いていた。
肝臓がんを患っていた父が終戦前に亡くなり、母と大森から山梨へ。甲府が近かったこともあり、実家の上を何度も飛行機の編隊が飛んでいったという。「(戦争当時の話を)人にするのは初めて。今の子どもたちに同じ思いはさせたくない」
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