戦後74年を迎え、戦争の記憶を伝える人たちは貴重な存在となっている。当時の様子について、綱島西在住の杉山昌子さん(91)に話を聞いた。
17歳まで戦争、戦争
小学生当時、日中戦争、第二次世界大戦が開戦。父が海軍に所属し、軍港の街「横須賀」に住んでいた。街中はいつもピリピリしており「やたらなことを言ってはいけない」と子どもながらに感じていたという。
「大東亜共栄圏」の教え
小6の頃、大東亜共栄圏という枠組みが叫ばれはじめ「東南アジアの国に日本人を送り、他国を良くしていく。日本の力を世界へ広げていく」と教えられた。小学校卒業後、県立高等女学校に進学すると学期始めにはあった英語の授業が、廃止に。「英語を使っている国も多いのに、日本語がそんなに広まるのだろうかと思いましたが、言える雰囲気ではなかった」。体育の授業も、なぎなたや棒を投げる訓練など戦闘に結びつくものばかり。疲れても大変とも言えず、絶対服従を叩き込まれていった。
米軍機からの機銃掃射
昭和20年3月に高等女学校を卒業。姉が教師をしていたこともあり、助教として北鎌倉の小学校に赴任。空襲警報時に児童らを家まで送り届けるのも教師の役目だった。「戦闘機が機首を下げたら機銃掃射の合図。撃たれるから絶対に動いてはだめ」という父の教えに従い、帰宅する児童らとともに壁などにぴたりとくっついて息をひそめた。「妹は学徒動員中、防空壕に避難する際に人が機銃掃射で撃たれるのを目撃。ショックで泣いていたのを憶えています」
何を信じるべきか
8月から師範学校で勉強を始めていたところ15日に終戦。「戦わなくてはならない」という教えすべてが間違っていたと知り「何を信じれば」と悩んだ。「哲学書や宗教書を読んだり、教会や禅寺に行ったりもしました。そして言いたいことも言えなかった戦前の教育をふり返り『やはり教師になりたい』と」。師範学校に入り直し、新しい教育はどうあるべきか、結婚し、一男一女を育てながら定年まで夢中で実践してきた。今は、コーラスサークルで活動するなど穏やかな日常をおくる。「戦争は悲惨です。ただ昭和という時代が始まった時も、『令和』が始まった時のように人々は希望に満ちていたはず。令和が平和の時代であることを願ってやみません」
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