現在は市民の森として親しまれている小机城址で、実態解明に向けた初の埋蔵文化財試掘調査が横浜市教育委員会の主体によって行われ、12月4日には市民らを対象とした現場説明会が実施された。市教委では、小机城址の実態解明や将来に向けた保存・活用を検討しており、今回の調査はその一環。
戦国時代の重要拠点
港北区役所・港北観光協会が発行した小机城址ガイドマップによると、小机城は15世紀半ばころまでには築城されていたと考えられ、交通の要衝として横浜市北部一帯を含む支配拠点だった。戦国時代には小田原北条氏の重要な軍事拠点だったが、徳川家康の関東入り後に廃城になったという。
小机城址は1977年に市民の森として整備され、2017年には「続日本100名城」に選定された。空堀や土塁などが現存し、1963年には第三京浜道路の建設で城の範囲を表す縄張りの一部が発見されたが、これまで専門的な調査は行われてこなかった。
調査対象となったのは、小机町737番に位置する東曲輪と北空堀の二カ所。主体は市教委で、(公財)横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターが支援した。
東曲輪で柱穴確認
東曲輪の調査地点は、二の丸広場南側にあたり、標高は約38m。南北15m・東西10mを調査区とした。地表面から約60cm下で関東ローム層が検出され、その上面を精査すると畑で耕された痕跡が見られ、柱穴と思われる灰褐色土の掘り込みが多数確認された。柱穴の配列から掘立柱の施設があったものと想定されるという。また、表層などから陶磁器や土器の小破片が出土している。
北空堀の調査地点は本丸広場から北側の斜面にあたり、標高約32m。一辺4・5mの正方形の調査区を斜面にかかるように設定した。地表面から約1・7m下で堀の存在が確認され、その後も掘り進めたものの、堀底は見つからなかった。断面からは堆積する土層が確認でき、ローム層の上にローム質土の塊を含む黄褐色土層と黒色土層が交互に堆積していた。これらは南側の曲輪方向から崩落したものと考えられるという。
現場説明会に141人
午前・午後に行われ、それぞれ地域住民ら92人、49人が参加した現場説明会では、市教委や同公益財団法人の職員が説明にあたった。参加者からは、富士山火山灰の堆積状況や堀の形状のほか、調査対象の決定理由等、様々な質問が寄せられるなど、関心の高さが伺えた。
町田市在住で、地域の歴史研究活動をしているという田井秀さん(79)は「小机城址には何度か足を運んだことがあるが、(試掘調査により)思っていたよりも深い堀があったことが分かった」と驚いた様子。小机城のあるまちを愛する会の木村光義会長(77)は「曲輪から柱の跡が出てきて、当時の様子がうかがい知れる。堀の形状を見て夢が広がった」、また同会の神谷敏明さん(72)は「(北条氏の築城法の特徴とされる)畝堀である期待はあったが、分からなかった。引き続き調査してほしい」と期待を寄せた。また、市教委事務局総務部生涯学習文化財課の宮田純一課長は追加調査の可能性に触れ、「一つ一つの成果を積み上げて、全体像の解明につなげられたら」と話す。
今後、時期は未定ながら、調査結果についての報告書を作成し、公開する予定となっている。
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