2015年8月15日、多くの尊い命が犠牲となった第2次世界大戦の終結から、まもなく70年の節目を迎える。今回、本紙では証言をたよりに、都筑区内で今なお息づく”戦争の跡”を追った。
遺族の思い、後世に
横浜市内で最も多い430人ほどの会員で構成する都筑区戦没者遺族会。毎年秋(今年は11月6日)に追悼式を行い、戦没者に対して黙祷を捧げる。
皆川健一さんは同会に加え、横浜市遺族会の会長、神奈川県遺族会の常務理事などを務め、戦没者の遺族を代表した立場として終戦70年を迎える。
大棚町で育った皆川さんは父親と叔父を戦争で亡くした。父は4歳の時に出兵し、シベリアで捕虜となった末、1947年に亡くなったと聞かされた。
「小さかったから父親の記憶はほとんどない。いつかお墓参りをしたいとは思っているんだけどね、なかなか難しい。父親と叔父さんのため、そして全ての兵隊さんのために死ぬまで追悼しなければいけないと思っている。今の私たちの生活を考えると本当に勿体ないと思う。栄養失調で亡くなった方がとても多い。本当に辛かったと思う」
各遺族会の会長として遺族会の重責を担い、皆の思いを代弁する皆川さん。今日13日、清林寺にある旧中川地区の戦没者慰霊平和の鐘への参拝、終戦記念日の15日には、県戦没者慰霊堂(港南区)の追悼式に出席する予定。
「悲惨な戦争は2度と繰り返してはならない」。短い言葉に万感の思いが込められる。節目の年、平和への誓いを新たにする。
面影残す、疎開跡
夏空の下、セミの大合唱が鳴りやまぬ正覚寺(茅ケ崎東)。71年前、激しさの増す空襲から避難するために子安国民学校(現・神奈川区)の学童約40人が集団疎開してきた場所だ。
境内に今も残るのは、当時の住民が子どもたちのために作った防空壕と井戸。ここで親元から離れたわずか10歳から12歳の子どもたちが1年間生活した。井戸は終戦後から使われていないというが、防空壕とともにその名残を色濃く残す。
そんな正覚寺境内には集団疎開にまつわる3つの碑がある。
そのうちの一つ、井戸の横に建つ碑には「生命の泉 ここにありき」の文字が見える。これは当時疎開していた故後藤巌さんが91年8月に建立したもので、同名の詩が刻まれている。
人の世の苦しみに泣いたおかげで/人の世の楽しみに心から笑える/打たれ踏まれ唇を噛んだおかげで/生まれてきた事の尊さがしみじみ分かる/醜い世に思わず立ちあぐんでも/みてごらんほらあんなに青い空を/皆が何ももっていないと嘲けても/皆が知っている美しい本当に尊いものを/愛と誠と太陽に時々の雨さえあれば/あとはそんなに欲しくない (「一」を抜粋)
境内を案内してくれた八木廣純住職は「子どもたちは本堂で暮らしていましたが、点呼すると数人いない。どうやら寂しくて親の所に帰ってしまうこともあったらしいです。2度と子どもたちが親元を離れて逃げてくるような戦争が起きてはいけない」と語気を強めた。
思い出をつなぐ手紙
源東院(東方町)と真照寺(折本町)の2つの寺に戦時中、日本軍の部隊が二手に分かれて駐屯していた。当時小学生だった源東院の娘、加藤恭子さんにとって兵士は身近な存在。祖母の制止をよそに兵士と言葉を交わしたこともあった。「出征していた兄の面影を兵隊さんに重ねていたのかもしれない」と思い返す。
それから時が経ち、加藤さんは折本町で暮らしている。10年程前に真照寺に「駐屯していた頃お世話になった人にお礼が言いたい」と連絡があったという話を聞いた。面識はなかったが、当時のことが懐かしく思い出され、加藤さんが手紙を送ったことから文通が始まった。
相手は防空壕を作る部隊に所属し真照寺で寝泊まりしていたという柳沢茂雄さん。手紙には、死を覚悟した兵士にとって元気な子どもの姿は励みになったことや、食事の世話になった家のことなどが書かれていた。当時の記憶を頼りに書いた地図をもらったこともある=写真。
「返事が来るのが待ち遠しかった。あの時代を同じ地域で生きた人と話せるのが嬉しかった」。柳沢さんは今年3月に亡くなり、会うことは叶わなかった。覚えている限りの思い出を共有し合った手紙は今も時々読み返すという。平和な時代になったからこそ話ができたことを胸に、手紙を大切に保管している。
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