兵庫県南部を震源とするマグニチュード7・3の直下型地震が発生した「阪神・淡路大震災」から1月17日で30年。横浜市消防局から被災地支援の陸上部隊に参加した港南消防署副署長の細井久雄さん(59)に、当時の様子について話を聞いた。
1995年1月17日。当時、金沢消防署の消防士長だった細井さんは、当直明けで自宅にいた。早朝、横浜でも揺れは感じた(震度2)が、大きな地震ではなかった。しかし、程なくして朝のテレビニュースで、ヘリコプターが上空から黒煙のあがる神戸の街を映し出した。「『大変なことになった』というのが率直な感想」。この後、自身が現地へ向かうとは想像もしていなかった。
景色一変
横浜市消防局は、消防庁長官の出場要請を受け、航空隊が17日当日から、陸上部隊が翌18日から応援出場した。
陸上部隊は、市内で比較的新しい消防車10台(水槽車5台、普通車5台)を選び、隊長、機関士(運転士)、副機関士、隊員2人の5人1グループで編成された。人選は急を要するため、各区の国際消防救助隊(IRT)の登録署員を中心に選抜。細井さんもその一人だった。第一陣は52人。局員は午前中に消防訓練センター(戸塚区)に集合し、午後1時に神戸市に向けて出発した。
機関士を務めた細井さんは、休憩と給油を挟みながら東名高速道路を走行。阪神高速道路が全面通行止めだったことから、途中で下道へ降り、神戸へ。しかし上下線ともに大渋滞。一般車両も含め、多くが被災地支援に向かっていた。三宮駅近くの神戸市役所に到着したのは深夜0時過ぎ。それでも「救援活動をする気満々だった」という。ただこの時は活動場所が決まらず、一旦、三宮を離れ、神戸市消防学校で午前3時過ぎから2時間ほど仮眠を取った。
翌19日の朝6時頃、地元の生田消防署に集まり活動を開始。一夜明けた神戸の街並みは、地震と火災の影響で「景色が一変していた」(細井さん)。
この日、活動範囲の場所で新たな火災が発生。街の中の防火水槽は空で、消火栓も破壊されていたことから、「消防車を5台つなぎ、500mほど先の海から海水を放水して消火にあたった」という。
層階が平たく潰される「パンケーキクラッシュ」の被害にあった建物では、潰された下の階に取り残された可能性のある行方不明者を捜索するため機械で床に穴をあけたが、「穴を開けた床のすぐ下も床だった」と想像を絶した体験を振り返った。
細井さんら第1陣は21日まで活動。22日に第2陣と交替し、横浜へ戻った。「待機の時間も長く、やり切ったという気持ちは全然なかった。後ろ髪をひかれる思いで帰った」と当時の無念さを振り返った。
市消防の陸上部隊は第3陣(〜1月28日)まで派遣された(航空隊は2月4日まで)。
経験、教訓つなぐ
阪神淡路大震災当時は、現在のように全国の消防機関による「緊急消防援助隊」の仕組みが整備されていない時代。細井さんは2004年の中越地震、11年の東日本大震災、18年の北海道東部胆振地震、昨年の能登半島地震にも出場している。技術の進歩や後方支援部隊の充実などもあり、年々「活動に集中できる」体制が整っているという。「温かい食事が提供されるだけでエネルギーが全然違う」と感謝する。
一方で市民には「在宅避難」できる備えを促す。「水や食料、そしてトイレの備蓄を。また地域防災拠点で必要な情報を得て欲しい」と呼びかけた。
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