豊島区駒込で生まれた宮澤美智子さんは、1939年生まれの85歳。小学1年生の時に終戦を迎えている。「戦時中のことはサイレンが鳴って防空壕に入ったこととか、学校の帰りに焼夷弾が落ちるのを見て、花火みたいだな、とか思ったくらい。正直ほとんど記憶にない」と振り返る。愛知県出身の叔父が近衛兵で、食べ物を持参して、慰問に行ったことが、記憶の片隅に残っている。
東京大空襲で家が消失。小金井の親戚の家に居候することになった。祖父のいる愛知県に縁故疎開していた2人の兄が戦後、居づらくなり、帰京。住む家がないため、小金井で一緒に居候することになった。居候の身分で人数が増えたことを忍びなく感じた家族は、駒込の焼け跡に戻り、「雨露をしのぐだけ」のバラックを建てて生活をはじめた。「終戦の年の冬もそこで過ごしたと思う」が、そんな厳しい状況も遠い記憶の彼方だ。
貧しく不衛生な戦後
むしろ記憶に残るのは、戦後の貧しく不衛生だった日々。
学校が始まると、朝礼で前に並ぶ子の頭にシラミがいたり、近所で伝染病が流行すると頭や首元から殺虫剤(DDT)を噴霧されたりした。
同年代で親を亡くした子どもたちは街のあちこちにおり、靴磨きや納豆売りをして働く子どもたちも多く見かけた。子どもは働き手で勉強は二の次だった。
瓶でコメをついて精米したり、薪でご飯を炊いたりするのは、宮澤さんら子どもたちの仕事だった。兄は紐に磁石を付け、釘や鉄くずなどを拾い、お金に換えていたという。飼っていた鶏のエサを集めるのも子どもたちだった。野菜も種から育てておかずにした。食料品だけでなくノートや運動靴まで配給で、配給の列に並ぶのも子どもの役目だった。
立川基地が近かったこともあり、アメリカ兵がジープで走ってくると「ギブミーチョコレート」と菓子をねだって追いかけた。「親には近寄ったらダメ、といわれていたし、アメリカ兵も顔は怖かった」けれど食欲が勝った。
電気は決められた時間しか通電せず、ランプを使っている時期もあった。「今考えると嘘みたいな貧しさだったが、当時はそれしか知らなかったから」と事も無げに話す。
小学3年生の時、東京ではいち早く給食が再開した。脱脂粉乳を溶いた野菜入りスープが出たが、「とにかく美味しくなかった」と笑う。「食べ終わった児童から外で遊んでよかったんだけれど…」と振り返る。「子どもたちが給食を『美味しい』といって帰ってくるのが信じられなかった」。その違いこそ、平和の証といえるかもしれない。
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