東京・新橋出身の江川治子さんは、1936年生まれ。戦争は、大田区・糀谷に住んでいた小学校入学時に始まった。「ここにいると大変なことになる」と、家族で埼玉県川口市に引っ越した。
毎日のようにB29爆撃機が上空に現れ、空襲警報が鳴り響いた。
「小学2、3年生の頃は学校に行っても警報が鳴ればすぐ家に帰されて。勉強した覚えがない」という。
きょうだいが多かったこともあり、逃げる際は、弟妹をリヤカーに乗せて移動した。家族で芝川にかかる橋を渡り、鳩ケ谷方面へ逃げる途中、機銃掃射に遭った。「バッバッバッバッ」という銃弾が地面に弾ける連続音と目の前に舞う砂煙は恐怖と共に今でも記憶に残っている。
爆弾投下の瞬間
川口では父が大きな工場を営んでいたこともあり、母屋の庭に防空壕を作っていたが、家の前の芝川の土手にも防空壕を作った。
土手の傾斜を利用して作った防空壕には開閉式の蓋がついており、逃げ込んだ後、恐る恐る様子を見ようと蓋を上げ、空を見上げると、B29が腹部の爆弾倉を開き、まさに爆弾を落とそうする様子が見えたという。「そのくらい近く、低く飛んでいたということだと思う」とその光景を思い出す。落下する様子を目撃した爆弾は、約4Km先のディーゼル機器を取り扱う工場に被弾した、と後で聞いた。
当時高校生だった6歳年上の兄は、鳩ケ谷方面に墜落した飛行機を見に行き、拾ってきた破片を見せてくれたことがあった。
東京大空襲の被害を体感したのは、暗闇の中、真っ赤に染まった雲が東京から川口方面へ流れてくるように見えた時。「どの辺りが燃えていたのかはわからないけれど、雲がこちらまで流れてきて、燃やし尽くされてしまうのでは」と恐怖を覚えたという。
戦争当時の話は、最近はしないものの友人や家族としていた。「孫も学校の課題で出されて、私の話を『フンフン』と聞いていたが、先生から『良い話が聞けましたね』といわれたみたいです」と笑う。兄は、戦争当時の自身の体験を本にまとめていた。「どれだけ当時の子どもたちが、軍国教育の影響で、国のやることや国のために海軍兵学校に行くことを、良いことだと信じ込んでいたか」を記していたという。
電球に黒い幕をかけ、家の中を暗くして過ごす必要がなくなったことで、終戦を実感した。戦時中は、灯火管制のため、夜はもちろん、日中でも空襲警報が鳴ると暗い中で過ごしていたため、いつまでも明るい室内が「すごく嬉しかった」と振り返った。
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