1939年、神奈川区生まれの柳下靖子さん(84)にとって、45年5月29日の横浜大空襲は、「九死に一生を得た」日として鮮明に記憶されている。
午前9時過ぎ。空襲警報と共に、横浜市内めがけて雨のように焼夷弾が投下された。父と兄は、地域の防火要員としてすぐに家を飛び出し、柳下さんは母と祖母、他のきょうだい3人と一緒に近くの公園の防空壕を目指した。
しかしたどり着いた防空壕はすでにいっぱい。後ろ髪をひかれる思いで公園を後にした。「子どもを4人も連れていたので、母も祖母も割り込んでまで入ることはできなかったのだと思う」と柳下さんは母の気持ちを慮る。公園の防空壕を去る時に、無情にも我が家が火に包まれたことを知った。
バラバラと降る焼夷弾。燃え盛る街。6人は「火のない所」「熱くない所」を探して逃げ回った。母たちが思いついたのが、街の通りから一段下がった場所を走る線路。神奈川駅から横浜駅へ向かう途中の青木橋を目指したが、そこも人であふれかえっていた。
火を避けようと、一行は中央市場のある港を目指した。水場なら火がないと思っていたが、港は文字通り火の海。「倉庫と倉庫の間から、炎が波のように襲ってきた」と当時の恐怖を昨日のことのように思い返す。
祖母の嗚咽
火と熱さから逃れようと母たちは防火用水を見つけては、かぶって逃げた。「防災頭巾がびしょびしょになったけれど、すぐに乾いたので、近くまで炎が迫っていたのだと思う」と振り返る。
爆撃は収まったものの、周りは炎と逃げ惑う人しか目に入らなかった。夕方近くになり、ようやく火が収まってきたため、家族で「何かあったらここへ」と集合場所に決めていた東神奈川駅の裏の菩提寺へ。そこには父と兄がおり、家族全員無事に再会となった。
家に戻ったが、家屋は全焼。金庫だけが燃え残っていたという。
朝、一杯で入れなかった公園の防空壕や線路に逃げ込んだ人の多くが焼夷弾の被害に遭って亡くなったと聞いた。
その日のうちに南区の母の実家へ。母の妹の家族も避難してきており、皆で無事を喜んだ。
母の実家では、海軍予科練習生(予科練)に入隊していた母の弟が、他の予科練生と一緒に歌をうたうラジオ放送を皆で聴いた。「歌はあまり良く聞こえなかった」が、ただ一人、祖母が玄関の脇で声を殺して泣いていた。「その姿は今でもはっきり覚えている」と苦悶の表情で吐露する。放送から間もなく、母の弟は出動。機体の整備不良が原因で墜落。帰らぬ人となった。終戦2日前の8月13日だった。
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