「J」の頭文字とともに夢の舞台に立つ球児たち--。神奈川県尋常中学校として産声を上げた神奈川県立希望ケ丘高校。1897年創立の伝統校は勉強だけでなく、スポーツや文化などの部活動にも熱を入れてきた。そんな同校が悲願だった甲子園出場切符を手にしたのは、1951年。希望ケ丘高校百年史には当時のことが記されている。
甲子園に出場する2年前。同校を卒業し立教大学野球部、三菱重工野球部に所属していた下田理一さんが教師からの誘いで監督に就任。当時の1年生を見た下田監督は「いい選手がそろっている」と確信。夢の舞台に選手たちを連れていくため、二年計画を立てた。
同年は十数年勝てていなかった横浜商業高校を打ち負かすも、準々決勝で逗子開成高校に敗退。翌年は決勝で商工高校に負けた。しかし、2年間の計画は着々と進み、迎えた51年、1回戦で小田原高校に4-3で辛勝。そこからは波に乗り、愛甲農業高校に16-1、三浦学苑高校に9-0、川崎工業高校に5-3、浅野高校に3-2と順調にこまを進めた。優勝候補だった商工高校と湘南高校が相次いで姿を消し、迎えた決勝、鶴見高校を7-0でくだし、創設以来の悲願を達成した。
強豪相手に2ラン
神奈川県大会で優勝してからは、校長が準備を指揮し、教師たちが寄付金集めに奔走。テストの点数も多めに見てくれたとか。女子生徒が願いを込めて千羽鶴を織り、学校中の応援や期待を胸に球児たちは、夢の舞台へと旅立った。
迎えた初戦。前年に「希望ケ丘」に改称されたが、ユニホームは「神中」の愛称で親しまれていた「J」があしらわれた以前のままで出場した。対戦相手は強豪・平安高校=京都府。先攻の希望ケ丘は、初回先頭バッターの倉知八郎選手がエラーを誘い、出塁。後続のバントで二塁に。3番の内野雅史選手は2ストライクで追い込まれるが、3球目のウェストボールを掛け存じた内角ストレートをレフトスタンドに打ち込み2点先制。「わあ!」と大きな歓声が鳴り響いた。平安の投手は大きく動揺。しかし、それ以上に固くなったのは先制点を守ろうとする希望ケ丘の選手だった。失策が続き、5点を取られて逆転負け。勝ち進んだ平安はそのまま頂点に立った。
下田監督は「頭のいい選手たち。飲み込みが早く教え甲斐があった」と後に振り返った。
昨年創部120周年を迎えた同校。今もOB会が現役選手を支え、悲願だった甲子園出場を語り継いでいる。
参考/希望ケ丘高校百年史-資料編-
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