1934年1月7日生まれの茶圓(ちゃえん)二治(つぎはる)さん(90歳)は、現・鹿児島県薩摩川内市の農家8人きょうだいの5番目として生まれた。
太平洋戦争が始まったのは小学校2年生の時。「途端に授業が変わりました。先生も『軍人さんは立派だ』と褒めていたのを覚えています」
敵兵に見立てたわら人形に竹槍を突き刺す練習などにも、疑問も抱かずに取り組んだ。ラジオから日本の勝利を伝えられるたびに喜び、敵軍の基地を占領した際は、村の神社で祭りを開いて、大人とともに祝った。「今思うと、洗脳教育をされていたんだと思います。誤った教育がいかに恐ろしいか、今ならよく分かる」と話す。ラジオ以外から情報を得る術のない茶圓さんは、実際の戦況を知らないまま、政府を信じ続けた。
迫る戦火
日本軍が各地で敗北を重ねると、本土にも戦火が迫り始めた。九州の工業地帯を爆破するため、鹿児島の上空を覆いつくすほどのB29爆撃機が往来。自身が住む町も米軍の空襲を受け、多くの家屋が焼き払われた。「特に忘れられないのが、終戦間際の7月に体験したことです」。その日は、友人たちと自宅近くの樋脇川へ遊びに来ていた。すると、前触れもなく20mほど上空を米軍の戦闘機が頭上を通過していったという。戦闘機は、茶圓さんたちの近くを通っていた汽車を標的にしていたが、狙われていると考えて川の中を必死に逃げた。「バチバチと機関銃の射撃音が響きました。とても恐ろしかったことを覚えています。当たったら命はありませんから」。仲間たちに犠牲者はいなかったが、機関銃の音は高齢になった今でも悪夢として蘇えるという。
また、別の日には零戦と戦闘機の空中戦も目撃。「しばらくすると、片方の機体が墜落しました。どちらかよく分からなかったのですが、後から墜落したのが零戦と聞き、驚いたことを覚えています」。形勢有利とされていた日本の敗北に、実際は追い込まれているのではないかと疑念を抱くことになった。
できることを考えて
終戦後、いとこの紹介で工作機械を取り扱う東京の商社に入社。39歳の時に独立し自身の会社を立ち上げ、85歳まで働いた。リタイア後、「奉仕活動をしてこなかったので、自分にできることはないかと考えたんです」と、「戦争体験を語り継ぐ若葉の会」の海老澤裕介会長の誘いに応じて、同会に加入。地域の学校で自身の体験を語ってきた。「ですが、それだけでは駄目なのです」とも話す。「それぞれが、何ができるか考え、そして行動することが大切です」と訴える。
〈神奈川県後期高齢者医療広域連合からお知らせ〉【75歳以上の方が対象】いざ、健康診査へ!今こそ自分の身体を見つめなおす時 |
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