「すぐ近くにいた男の子に焼夷弾が落ちました。自分のことで精一杯で何もできなかったことが、大きな心の傷としてずっと残っていたんです」--。瀬谷区二ツ橋町在住の藤原律子さん(92)は横浜大空襲に遭いながらも、九死に一生を得た。辛い記憶と悔恨の念は長く胸に秘めていたが、50歳ごろから体験談を話すようになり、現在も平和の尊さと戦争反対を訴えている。
片足失った男児「助けられず」
藤原さんは西区浅間町の鉄工所を営む家に6人姉妹の4番目として生まれた。父親が身体を壊し、小学校6年生の頃に港北区にある妙蓮寺の近くに移住。山手にあった横浜女子商業学校中学部に通っていたが、学徒動員により関内近くの銀行で働いていた。
横浜大空襲の1945年5月29日は、月2回の登校日だった。友人との交流を楽しんでいた午前9時30分頃、警戒警報が発令。間もなくして空襲警報に切り替り、帰宅することになった。桜木町まで移動したが、東横線が動いていなかったため、歩きで浅間町にあるおばの家を目指した。
着いた町は人もまばらで、おばも不在。途方に暮れていた頃、米軍のB29編隊が轟音とともに姿を現した。「見たこともない飛行機の数。青空だったのに、真っ黒な機影で雨が降っているみたいでした」。大人の誘導で近くの小さな防空壕に逃げ込むも、焼夷弾によってあたり一面が火の海になり、更なる避難を余儀なくされた。
火の間を縫うように、逃げている時だった。4、5m先を走っていた男の子の近くに焼夷弾が落ちた。浅間町に住んでいた頃、駄菓子屋で見たことのある2歳ぐらい年上の子だったという。男の子は着弾の衝撃で片足の膝から下が吹き飛び、2、3歩歩くと倒れた。「周囲の大人も含めて、誰も助けられませんでした。止血とか何かできることがあったかもしれません」。とにかく必死で走り続けた。
その後は企業の大きな広場のような場所に辿り着いた。湧水のある神社の床下で一晩を過ごし、自宅に歩いて辿り着いたのは翌30日の夕方。無事だった家族に迎えられると、疲労と安心感で気絶した。
「黙っていてはいけない」
戦争体験を話すようになったきっかけは40代後半、瀬谷区で行われた教育研究集会に参加したときのこと。平和をテーマに東京大空襲のスライドが上映され、衝撃を受けたという。講師の「体験は自分だけに留めず、周囲に伝えて平和な社会づくりに貢献しましょう」という言葉に、「私も黙っていてはいけない」と心に決めた。
これまでに市内の中学校や所属する「I女性会議」の集まり、護憲大会などで体験を伝えてきた。5年ほど前からは家族にも当時のことを話すようになった。
ロシアとウクライナ、イスラエルとガザのニュースを目にする度に横浜大空襲を思い出し辛くなるが、「本当は見たくないけど、悲惨な状況から目を逸らしてはいけない」と奮い立たせる。体験談で多くの人に伝えたいことは「戦争は絶対に駄目」ということ。護憲の必要性も強調し、「日本が80年近く戦争していない原点は平和憲法にあると信じています。その点を多くの人に理解して欲しい」と話す。
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