〜『瀬谷区の歴史地名ガイドマップ』をもとに〜 連載 地名で読み解く瀬谷の埋もれた歴史 第7回 地形から見た瀬谷の地名と村の様子(その2)文/横浜・瀬谷地図くらぶ 田中常義
『皇国地誌』(明治12年)によると、瀬谷村は「地味ハ黒壌土(くろぼくど)、其質中等ノ下。稲、粱(あわ)、及ビ菽(しゅく)(豆類)ニ不適、麦、或ハ桑・茶ニ適ス、菜蔬(さいそ)(野菜や青物)ニモ可〜中略〜水利ハ不便」であるが、阿久和村は「地味中等(ちゅうとう)〜中略〜田圃ハ西方ニ開ケ、中央ニ阿久和川ノ流レアリ、運輸便、薪炭(しんたん)乏シカラズ」とある。宮沢村は「土質下等〜中略〜稲、粱、菽ニ宜シカラズ、麦・桑・茶・或ハ蕃薯(ばんしょ)(サツマイモ)ニ適ス、水利便ニシテ灌漑(かんがい)ニ苦シム事少ナシ」であり、二ツ橋村は「土質痹悪(せきあく)(痩せ地)〜中略〜稲・粱・菽菜・麦ニ不適、桑・茶及ビ菜蔬ニ少シ適ス、蕃薯ニ最モ宜シ水利不便、時々灌漑ニ苦シム」とある。畑地が多く、専用の桑畑が散在し、多くは圃場の周囲に桑が植えられ、養蚕が盛んな地域であった。
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