1988年・インターハイ予選
県立松陽高校の男子バスケットボール部はかつて、相模工業大学附属高校(相工大附/現・湘南工科大附属高)と県の2強時代を築いていた。両校は人気漫画「スラムダンク」に登場する強豪チーム「海南大附属高」と「翔陽高」のモデルともいわれている。
松陽のバスケ部に所属していた尾林功二さん(52歳)は1988(昭和63)年の夏、3年エースとして夏のインターハイ県予選大会に臨んだ。決勝リーグでは綾瀬、藤沢商、相工大附を相手に全勝し、チームは優勝。2年連続の全国大会出場を手にしただけでなく、個人としてもその得点力を評価され、県最優秀選手(MVP)に輝いた。
「もとから上手い選手だったわけじゃなく、ただがむしゃらにやってきただけ。仲間や試合に使ってくれた先生のおかげで強い選手たちとふれ、成長できた」と尾林さんは明かす。
挑戦するため横浜に
中学時代は海老名市の大谷中学校に。当時すでに180cmと長身だったこともあり、県央地区では名の知れた選手だった。「たとえチームが試合に負けても、いつも個人では絶対負けていないと思っていた」
その自信を打ち砕かれたのは中学2年の冬。横浜市内の中学生との合同練習で、汲沢中学(戸塚区)の選手と対戦した。「同学年にものすごい選手がいた。ディフェンスもオフェンスも、なんにもさせてもらえなくて」。それは後に全日本でも活躍することになる佐古賢一さんだった。(佐古さんは中学卒業後、北陸高校へ進学。88年のインターハイでは決勝で能代工業をやぶって全国を制した)
ただその出会いは尾林さんにとって挫折ではなかった。「それまでお山の大将みたいなもので。こんな選手がいたのか、ってワクワクしました」。そんな経験もあり、高校は県央を飛び出して松陽への進学を決めた。県央の高校ならレギュラーはほぼ確実だったが、「試合に出れなかったとしても、横浜に行って自分がどこまでやれるか試してみたい」と高い壁に胸を躍らせた。
恩師との出会い
松陽を7度の全国大会に導いた当時の顧問・阿部哲也さんのもと、尾林さんは2年からレギュラーに。「延長戦に入ったら、『全部俺にパスを回せ』って言うんですよ、上級生相手に。それで決めるんだから、シュートが上手かっただけじゃなく、とにかく気持ちが強かった」と阿部さんも懐かしむ。
国体の選手にも選ばれ、学校行事にはあまり参加できなかったほどバスケットに熱中した日々。その後、推薦で大学バスケの強豪・順天堂大学に進んだが、「自分より10センチも20センチも大きな選手が同じスピードでプレイしていた」とレベルの高さを痛感。実業団入りは諦め、一般企業に入社した。
今につながる土台に
だが当時、会社員としての仕事に熱くなれなかったという尾林さん。恩師の阿部さんに相談したところから、個人事業で鍼灸整骨院の開業を目指すことにした。仕事に熱意を注いで成果を上げ、現在は全国に展開して60店舗を運営するほどにまで成長した。
「向上心をもって可能性を追い求めるというのは高校時代に学んだこと。チームで喜びを分かち合ったり、お互いに補い合ったりするのは仕事でも同じ」。大学で教員免許を取得し、教師に憧れた時期もある尾林さん。「教育が未来をつくると思うんです。それは会社経営や社員の育成でも同じなんじゃかなと最近思います」
あの夏を経て――。尾林さんは今なお、未来に胸を高鳴らせながら、日々を駆け抜けている。
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