かつて「渋滞の名所」として知られた戸塚大踏切のそばにあった「たばこや呉服店」。その末娘として昭和3年に生を受けた桝谷朝子さん(戸塚町在住・90)は、ほぼ1世紀にわたり、戸塚の移り変わりを間近で見続けてきた”生き証人”のような存在だ。改元を迎えたいま、桝谷さんが走り抜けてきた昭和・平成を、そして新たな時代―令和への思いを語ってもらった。
桝谷さんの父が明治34年に吉田町に創業した「たばこや呉服店」。場所は現在の戸塚駅東口側にある「スポーツクラブNAS戸塚」にあった。「番頭さん、小僧さんがいてね。店の周辺からはもとより、平戸町やいまの泉区の中田の方からもお客様が来られた。賑わっていたのよ」と柔らかな表情で振り返る。商店街には、駄菓子屋、酒屋、下駄屋―など多種多様にそろっており、大勢の買い物客が足を向けていたという。当時の記憶として鮮明に残っているのが商店の売り出しを宣伝する「ちんどん屋」の姿。「ラッパを鳴らして練り歩くのをよく覚えているわね」と目を細める。
末娘として大切に育てられた桝谷さんは、戸塚小学校卒業後、当時として珍しい、県立横浜第一高等女学校(現・平沼高校)に進学。青春時代を謳歌する。特に熱中したのがバイオリンだった。「素敵な先生が教えてくれて」と茶目っ気たっぷりに笑う。しかし、太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ状況は一変、空襲が激しさを増すなか、鶴見区にあった菓子製造業社で戦地の兵隊に送る、携帯用のビスケットを作る動員に駆り出されるようになる。17歳で終戦。その後日本女子高等学院(現・昭和女子大)に進学した。24歳で結婚してからは専業主婦となり、息子二人を育て上げた。
吉田茂首相を目撃
子育てがひと段落した平成になった頃からは、バイオリン教室を立ち上げ、30年間にわたって指導を続けてきたほか、話し方教室などでも指導にあたってきた。「私はやはり商人の娘。誰とでも垣根なく話せるんです」
桝谷さんが忘れられない思い出の1つに戦後直ぐ、吉田茂首相が生家前で踏切が開くのを待つ姿がある。「高級車に乗っていたわね。イライラしているように見えた」と話す。それが戸塚道路(国道1号)の建設につながったという逸話は有名だ。
時は流れ、大踏切は外され、戸塚駅前は再開発が終了、街の様子は激変していった。「私たちの生家は、10年ほど前、約110年で暖簾を下しました。この間、戦争はいけませんでしたが、文化が発展したのは素晴らしいこと。偉そうなことは言えませんが、これからの時代を担う若い方々には人間関係を豊かなものにしてほしい。お互い素敵に生きて行きましょう」とエールを送った。
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