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川邊重男さんと行く戸塚区原宿、いまむかし
戸塚区原宿と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、国道1号と環状4号線が交わる「原宿交差点」だろう。では、それ以外は?
交差点すぐそばに住む川邊重男さん(73歳)は「このまちの歴史と魅力を、もっと知ってもらいたい」と本紙での特別企画を立案。代々この土地とともに歩んできた川邊さんの思い出話を聞きながら、”あのころ”の戸塚区原宿を振り返ると、活気ある商店主とまちの人々の声が聞こえてくる――。
そもそも「原宿」はどこ?
現在の神奈川県が相模国という名前だった時代、「原宿村」と呼ばれていたこの地域。
原宿村はその後、1889年の町村制によって、汲沢村と深谷村と合併し「富士見村」に。さらに1915年には周辺地域と合併し「大正村」と名前を変えた。
川邊さんの自宅には、大正村時代の貴重な地図が残っている。地図の中には現在とまったく異なる民家や田畑の様子が広がる一方で、大まかな区画や主要な道路などは今の景色につながる部分もある。
また、「下ノ谷」「八幡山」「松葉」など、今はない地名も。川邊さんは地域への愛着を込めて、自身が持つ不動産物件のいくつかにそれらの名前を付けている。
大正村は、横浜市に参入した39年に「原宿町」と名称が変わった。さらに時を経て99年に、小雀町、戸塚町、原宿一丁目から五丁目に編入され、原宿町は廃止となった。しかし、川邊さんは「今もその名残を見れる」とある場所を紹介した。
交差点手前の歩道橋には「戸塚区原宿町第二」=写真【1】=と書かれている。町名が廃止されて以降も、歩道橋の表記が変わらないことを不思議に思った川邊さんが、国に問い合わせたところ「ドライバーの人には、この名前で目印になっているから変更しないんだって」。原宿の長い歴史の一部を垣間見ることができる。
にぎわう商店街とその今。
交差点を深谷方面に向かう道沿いには「横浜・原宿商店街 松栄会」がある。1960年に設立された同商店会とその周辺について、川邊さんは記憶をたどりながら「魚屋、肉屋、八百屋とかなんでもあって、活気があったんだよ」と話す。
さらに中華料理店や寿司屋、居酒屋など複数の飲食店が並んでいたという。「原宿の人の交流の場所だった。待ち合わせしなくても、『あら、ここにいたんだ』ってそんなやり取りがよくあったよ」と懐かしむ。
長年、商店街の移ろいを見つめてきた「金子靴店」の金子美重子さんは「今でも周辺に住む人と、『昔はこの辺に、こんなお店があったね』と当時の話題で盛り上がることがある」と話す。
今も、原宿の人々の記憶の中に、当時の商店街は生き続けている。
重男少年の思い出
「国道1号を自衛隊の大きなトラックや戦車を運搬する車両が、人を乗せて走っていた。小さいころ、それを見るのが好きでね」――。
現在は商店や住宅が並ぶ国道1号の沿道は、一面の砂利道だったという。川邊家は当時、茅葺屋根の家屋で2階では蚕を育てていた。
川邊さんが大学3年生の時、建て替えの工事が決まり、アルバムには当時の家の最後をうつした写真が多く残っている。「屋根にのぼったり、レベリングしてみたり。いろいろ思い出すね」
さらに、当時の自宅が描かれた不思議な絵が残されている=写真【2】。額の裏に貼られた領収書には、父・利男さんが画家・青山光佑さんに制作を依頼したと記されている。川邊さんの記憶によると、青山さんは「家の絵を描かせてほしい」と突然川邊家を訪れたという。「一体誰なのかわからない。でも見ると、懐かしい気持ちになる」
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