第110話 〜紡ぐ古道・その三:多くの鎌倉道〜 とつか歴史探訪
鎌倉道は鎌倉と関東各地の幕府の御家人の領地を結び、有事の際には"いざ鎌倉"と、鎌倉殿の元へ向かう重要な道として発達しました。戸塚・泉の両区には何本もの鎌倉道と称する道が通っています。
「鎌倉上道」は、藤沢の柄沢から鉄砲宿あたりで旧東海道を跨ぎ境川沿いに俣野を抜けると泉区に入り、飯田家義の領地であった下飯田を通り長後街道と交差し上飯田を抜け瀬谷区へと繋がって行きます。「藤沢・八王子道」とも呼ばれますが、泉区の本興寺は最後の旅に出た日蓮が入寂し身延山に遺骨が向かう途中、飯田に泊まった跡地に建てられたとされ、日蓮ゆかりの道となっています。又、並行して新田義貞が鎌倉責めの際に通ったとされる「たつ道」は、今は"ゆめが丘ソラトス"沿いの道として新たに生まれ変わっています。
「鎌倉中道」は、本郷台から舞岡公園辺りで戸塚区内に入りますが、ここには舞岡の元の名前"前岡"と刻まれた庚申塔があります。港南区との区境を経て日限地蔵尊から上柏尾で旧東海道と交差し旭区へと抜けていきます。舞岡辺りは、並行して何本かが走っていて複雑となっています。
「鎌倉下道」は、舞岡の中道〜日限地蔵尊辺りから永谷へと向かって行きます。
又、泉区の立場辺りを南北に通る"かまくらみち"は、区民からの応募で名付けられた愛称です。このように多くの鎌倉道からは、戸塚が中世鎌倉との関わりが深かったことを窺うことが出来ます。