第112話 〜ペリー横浜上陸170年と戸塚〜 とつか歴史探訪
令和6(2024)年は、ペリーが横浜に上陸してから170年でした。嘉永7(1854)年ペリーは横浜の小柴沖(今の金沢区)に来航、幕府は「通商(貿易)は拒否するが、港は開く」とし日米和親条約が調印されました。実は、その前年に黒船で浦賀に来航し大騒ぎとなりますが、再度来航することを告げ12月に退去しています。
安政3(1856)年7月21日、タウンゼント・ハリスが米国総領事としてサン・シャトル号にて下田に来航します。目的は、通商条約の締結でした。ペリーとの間に締結された日米和親条約には、通商条約は盛り込まれていなかったためです。
徳川幕府は通商条約を嫌い、引き延ばしの対応をしめしますが、隣国中国での英仏両国との戦争などから幕府の姿勢に大きな変化をもたらし、ついにハリスの江戸出府を認めることになります。
幕府は内外の情勢の変化を見て、条約締結やむなしの方針のもとに、条約交渉に入り、安政5(1858)年1月に交渉は妥結となりましたが、勅許が得られず調印は延引を重ねます。即刻決断を迫るハリスに対し、大老・井伊直弼は最後の決断をなし、同年5月19日小柴沖ポーハタン号艦上において「日米修好通商条約」及び「貿易章程」が調印されました。又、米国首都ワシントンに使節を派遣する合意がされました。
これを受け万延元(1860)年戸塚品濃町の第十代領主の新見正興を正使とした総勢77名の一行は米国海軍軍艦・ポーハタン号に乗船し遣米使節団として横浜を出港しサンフランシスコに向け旅立ち、後に世界一周を果たし帰国しました。 品濃町には、新見家二代正勝・九代正路の墓、ゆかりの白旗神社などがあります。
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