とつか歴史探訪 ■〜旧東海道・戸塚宿を訪ねる〜第64話 〜剣豪と萩原代官屋敷・道場跡〜
旧東海道沿いの境木地蔵前の細い道を下り、竹林の中の更に細い道を抜けると江戸時代から残る萩原代官屋敷の門が見えます。
萩原家は徳川幕府の旗本杉浦氏の代官職でした。旗本とは将軍直属の家臣で、一万石未満の報酬を得て将軍に謁見できる者をいいます。萩原家はその領地の一つである平戸村の代官としてこの地に屋敷を構えました。代官は勘定奉行に属し、年貢などの収納や警察、民事・軽犯罪の裁判などの職務に当たります。このことから代官屋敷内には、お白州(法廷)、石だたみ、牢屋などもありました。
幕末、当主であった萩原太郎行篤(ゆきあつ)は、千葉周作(北辰一刀流)などと同時代の名剣士と全国的に知れ渡り、嘉永4年(1851)に直心影流の免許皆伝を得て道場を開きました。道場は門の右側にあり、今はその痕跡はありません。萩原道場は慶応2年(1866)までに225名の門下生を輩出したそうです。明治45年(1912)に造られた行篤を顕彰する「剣道師範萩原君碑」が門に向かって右斜め後方の旧矢場の林の中に立っています。
萩原家所蔵の「剣客名簿」には安政5年(1858)、後に新撰組の隊長となった24歳の近藤勇が他流試合(道場巡り)でこの道場を訪れたことが直筆で残されています。ただ近藤勇は行篤にあえずに署名だけ残して去ったようです。実際に会ったらと思い巡らすだけで胸が躍ります。
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