1939(昭和14)年7月生まれの小野隆子さん(85歳)。当時一家は兵庫県芦屋市で暮らし、父・土本義雄さんは大阪市役所に勤めていた。隆子さんが4歳の頃、旧・帝大で土木工学を学んだ父は横須賀海軍に徴用され、弾薬庫の設計などを任されることとなった。これを機に一家は母・梅子さんの実家のあった吉祥寺に移り住んだ。
「みんなひもじい思いをしていたのに、軍人だけは食事もいい待遇だったんですよね。父も将校待遇だったみたいで、あとで聞いて頭にきた」
母やきょうだいと吉祥寺で暮らしていた頃、父はたまに帰ってきては「こんなバカな戦争で日本人を何人殺すのか」と語っていた。「常識ある人にはわかっていたんですよね、そういう戦争だって」と隆子さん。父の声があまりに大きく「特高(とっこう)(特別高等警察)に見つかるんじゃないかって、冷や冷やしていました」。
ある時、家のすぐそばに爆弾が落ち、直径30mほどの穴が開くほどの被害に。そこにあった建物や人は一瞬にして姿を消した。それを機に、福井市内に住んでいた伯母夫婦の家へと、母、姉、弟、妹と疎開した。
6歳になったばかりの夏
だが福井も平和ではなかった。隆子さんが6歳になったばかりの1945(昭和20)年7月19日の夜。住んでいたのが市街地ということもあり、大空襲がまちを襲った。
「B29の大編隊がくるぞ」。高校教師をしていた伯父の指示で防空壕には入らず、街から離れるようにして田んぼのあぜ道を走った。
だが空には埋め尽くすほどの戦闘機。「兵隊の顔が見えるほど近かった」。焼夷弾が降り注ぎ、あちこちで火の手があがる。当たった人が一瞬にして焼け死ぬのも目の当たりにしたが、ただ逃げるのに必死だった。
ようやく息をついたのは鉄道のガード下。やっと振り返って市内を見た。「美しいとすら思えるほど一面真っ赤に染まっていた。しばらくすると真っ黒な柱の林になって、それがガラガラと崩れていったのが忘れられない」。明くる朝、家を目指して歩き始めると、防空壕から半身を乗り出すような姿で黒く焼け死んでしまった人を何人も目にした。「見ないで歩け」。伯父の声を頼りに足を進めた。
戦後、父は運輸省を経て法政大学の工学部創設に尽力。一方の母は56歳の若さで亡くなった。「パレスチナのニュースをみると、今でもあの当時を鮮明に思い出して眠れなくなる。戦争は絶対にいけないこと」
〈神奈川県後期高齢者医療広域連合からお知らせ〉【75歳以上の方が対象】いざ、健康診査へ!今こそ自分の身体を見つめなおす時 |
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