港南台駅本郷台駅 開業40周年を迎えて 過去とこれから
1973年(昭和48年)4月9日に、洋光台から大船まで根岸線が延長されてから今年で40年を迎えた。その延長に伴って開業したのが、港南台駅と本郷台駅。両駅の歴史を根岸線の歴史と共に振り返る。
遡ること大正初期。その当時既に、桜木町から大船への路線延長が計画されていた。その際は保土ケ谷駅を経由することになっていたが、実現には至らなかった。また、終戦直後にも延長が計画され、この時は「桜大線」と呼ばれ、一部工事が始まったが、国鉄(現JR)も戦後復興以外の余力がなかったため、またすぐに中止されてしまった。その後、根岸線と名称を変え工事を再開。64年には桜木町〜磯子間が開通し、70年には磯子〜洋光台間が開通。そしてついに73年、洋光台〜大船間が開通し、大正初期からの桜木町〜大船間の路線延長計画が完成した。
港南台駅
現在、港南台駅の1日平均乗車人員は3万3307人(11年度調べ)。近年は徐々に利用者が減少傾向にある。もともと、65年頃まで、静かな山村であり、農業や林業で生計を立てる住民がほとんどだった港南台。当時は港南台という地名ではなく日野町と呼ばれており、日野町の山奥、行政区も南区で、「南区のチベット」という表現もあったほどの地域だった。しかし、その港南台にも55年以降全国的に始まった、住宅開発、特に団地造成の波が押し寄せる。64年には、日本住宅公団による港南台地区100万坪の開発計画が持ち上がった。その際、開発に深く関わったのが港南農業協同組合専務理事(当時)の渡邉幸雄氏。渡邉氏はその功績が称えられ、港南台のダイエー脇に銅像が作られている。
本郷台駅
現在、本郷台駅の1日平均乗車人員は1万9058人(11年度調べ)。栄区の玄関口である。戦前・戦中には周辺一帯に第一海軍燃料廠があり、軍需工業の高まりと共に多くの工場が建てられた。戦後、アメリカ軍に接収された第一海軍燃料廠の跡地が、67年(昭和42年)に全面的に返還。そこに現在の県警察学校のほか、市営・公団・国家公務員などの高層住宅が建設された。また、65年頃から80年頃にかけて、丘陵地を中心に大規模な住宅開発が行われ、住宅都市に大きく変貌。本郷台駅の開業で電車利用者が増加すると共に、宅地化も一層加速していった。
今後への課題
港南台・本郷台ともに開発当時住み始めたのは、子育て世代を中心とした30代から40代の人たち。それから40年が過ぎ、高齢化が顕著になってきている。
これに対し、栄区役所の担当者は「生活の利便性など、地域の声を受け止めないといけない」と話す。区内では敷地面積や立地規制などを柔軟に運用し、実際に長屋の住戸数変更を認めている地域もある。「子育てをしやすい街」として、若い人たちを受け入れ街の活力を取り戻そうとしている。
港南台駅は栄区民の利用者も多く、区を超えての連携を図る。本郷台駅も、駅前広場を活用してさまざまなイベントを行い、地域住民にも浸透しつつある。40周年は両駅にとって、ひとつのきっかけにすぎない。
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