連載 かねさわ地名抄 第23回「六浦」 文・NPO法人 横濱金澤シティガイド協会
「六浦」の最古の用例は平安『和名抄』。武蔵国久良岐郡「鮐浦」、訓注に「布久良」と書かれています。中世の資料『吾妻鏡』には頼朝の暗殺を企てた上総介忠光の首を和田義盛が「六連海辺」に晒した、とあります。また『神明鏡』には「小山若犬丸の遺児の2人、六面燠(おき)へ流さる」の例もありますが、当て字と思われます。1267(文永4)年に書かれた称名寺の『審海書状』で「六浦」の漢字に「むつら」のルビがふられていました。「六浦」を「ムツウラ」の発音で一般化したのは、明治期と言われています。
平安期、現在の金沢区全体は「六連庄」として武蔵国久良岐郡に属しますが、宝樹院客仏の『常福寺阿弥陀三尊像修理願文』には「相州国衙(こくが)官人の内蔵(くらの)武直(たけなお)」の名が残り、六浦と鎌倉を一体とした相州国衙支配の痕跡があります。また鎌倉初期から1277(建治3)年にかけて、六連庄全体は、真言宗御室仁和寺勝宝院の荘園として国衙(こくが)の支配を受けない土地でした。現在の龍華寺は関東には珍しい京都仁和寺の直末寺院で、創建当時、六連庄内の兜率天(とそつてん)の弥勒浄土を模した四十八子院があったといわれ、現在でも区内に12の真言宗御室派の寺院が残ります。
龍華寺前身の蔵福寺(浄願寺)は源頼朝と文覚上人が創建した瀬戸明神の別当寺と言われていますが、これは正妻政子に疎まれ、仁和寺に幼くして出家させられた頼朝の庶子貞暁(じょうぎょう)と母大進局(だいしんのつぼね)(父は後の仙台伊達家祖)母子への持参所領の代替と言われ、父頼朝の貞暁母子への深い想いが今日に伝わります。
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