古文書から見る金沢 第4回 文/飯塚玲子
前回『元除編覧』という俳句の本を紹介したが、その本の中に葛飾派白芹の有力な門人で、「万岳」という六浦に住んでいた俳人の句が載っている。
この人は金沢の俳人の中でも、本名がわかる数少ない人である。
『葛飾蕉門文脈系図巻之五』という本によると、武州金沢六浦に住み、その名前を田中隼人、あるいは道悦といったという。また、皓月庵と号し医者でもあった(玄悦と書かれた資料もある) 。
万岳は、文化10(1813)年3月には判者になっている。判者とは、句会などで句の優劣、可否などを判定する人の事である。
六浦の元生協があった場所に、昭和40年代ぐらいまで、田中医院という病院があった。最近まで、名残の古い石垣が残されていた。その田中医院の医師の御先祖様が万岳である。江戸時代から、代々医者をしていたという。
田中医院は、明治時代、3つの病棟に、病室が20もあり、2000坪を越す敷地があったという。三分小学校の校医もしていた。芥川龍之介も治療に通ったこともあった。
![]() 「元除編覧」の万岳の句
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