第2回「角田武夫の生きた時代」 寄稿 「金沢百景」 文/神奈川県立金沢文庫 山地純
金沢八景最後の姿ともいえる『金沢百景』などが描かれた昭和10年頃の金沢ではちょっと不便なことがありました。横須賀軍港の後背地として軍関連施設や軍需工場が進出してきていたからです。
明治32年に軍機保護法と要塞地帯法という法律が制定され、金沢はその適用範囲に入ってしまいました。そのために、許可無しでは軍関係施設付近は写真撮影やスケッチなどが出来なくなってしまったのです。市町村長の許可を得た上で軍司令官に申請する、つまり金沢では横須賀鎮守府の許可が必要でした。角田武夫の描いた絵には時々赤い印が押されています=写真。「横須賀鎮守府 11.6.16 検閲済」とあれば、昭和16年6月11日の検閲印という意味です。
角田武夫が生まれた明治17年からしばらくは、江戸時代の金沢八景と同じような景色が多くありました。しかし、昭和10年頃には、烏帽子岩、夏島や室の木などが軍によって削り取られ埋め立てられ、今の金沢区役所あたりの泥亀新田(大橋新田)にまで海軍航空技術廠金沢支廠や軍需工場が進出しました。大きく変貌してゆく「ふるさと金沢」を軍の許可を得てまで描き留めようとして『金沢百景』は生まれたのです。
■特別展「金沢百景〜角田武夫が描いた失われた風景〜」=神奈川県立金沢文庫で5月29日まで開催
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