金沢区制70周年記念連載 「地元の歴史 振り返る」第21回 富岡に残る戦跡 文/NPO法人横濱金澤シティガイド協会本コラムでは2018年5月に金沢区が区制70周年を迎えるにあたり、シティガイド協会の協力を得て、地元の歴史を振り返る
明治時代の後半に金沢は、首都を守るための要塞地帯とされ、住民の生活には、いろいろ制限があった。昭和時代になると、富岡の地先海面が埋め立てられ11年(1936)に日本で初の飛行艇による航空隊である横浜海軍航空隊(浜空)が開設した。その際つくられた隊門、飛行艇の格納庫などは今でも見ることができる。浜空ができたことで、大日本兵器、石川島航空工業、日本飛行機などが次々に建てられ、富岡は、まさに軍需工場の街に変貌した。
昭和20年(1945)6月10日、日曜のお昼近く、これらの軍需工場を爆撃した米軍機によって、乗客が避難した富岡駅下のトンネルの入口と出口両方に爆弾が落とされ、人々は逃げることもできず、多くの人が亡くなった。近くの慶珊寺境内にこの時の犠牲者の慰霊塔がある。軍需工場や動員学徒の宿舎も被害が大きかった。
戦後、大日本兵器は「日平産業」と改名し、その後移転したため、跡地40万坪は能見台のおしゃれな住宅地となった。
米軍に接収されていた航空隊跡地は、返還後、昭和50年(1975)に富岡総合公園になった。公園の山中には海軍の境界を示す石柱がいくつか残り、全海軍飛行艇隊の戦没・殉職者を合祀した浜空神社は、平成20年(2008)に横須賀の雷神社に移され、跡には、記念碑が建立された。
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