野口英世と長浜 第2回 長浜に検疫所ができた経緯 文/NPO法人野口英世よこはま顕彰会
このコラムでは、一号停留所の保存運動をする野口英世よこはま顕彰会が6回にわたり、野口英世と金沢区長浜とのつながりについて紹介する。
1879(明治12)年9月、兵庫県下から横浜港へ入港した新潟丸船員がコレラに罹患していたことから流行の兆候と考えた神奈川県知事は、入港船舶の検疫を施行するため、患者・貨物の消毒施設「長浦消毒所」を設置し入港船舶を回航させ停船の上、消毒を行った。消毒所は、横須賀と長浦湾の間に突出した箱崎半島の先端に開削された堀割の両側にあったが、日清戦争の勃発を機に横須賀軍港拡張のため移転せざるを得なくなった。そこで、1895(明治28)年、久良岐郡金沢村字長浜(現金沢区長浜)に移転、開所したのが「長濱検疫所」(現厚労省横浜検疫所輸入食品・検疫検査センターの前身)である。
当時、検疫は入港船の旅客にとっては迷惑な施設と考えられ、感染の疑いのある船客の停留時に便宜と快楽を与えたいとの配慮から、長浜検疫所の立地は「特に天然好風景の地を選び、所内には庭園を設け旅客の歓楽に供し、海水浴場におけるような設備」としたという。広大な敷地内には、現在、保存活用の署名活動などを進めている一号停留所・検疫資料館は「上等船客の14室の上等客の停留所」とし、関東大震災で倒壊した2号停留所(100人収容の下等船客用停留所)が設けられていた。
なお、この長浜検疫所は、短期間であったが野口英世も勤務し、世界への飛躍につながる業績を示した場所でもある。
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