野口英世と長浜 第4回 ペスト騒動で英世が大活躍 文/NPO法人野口英世よこはま顕彰会
このコラムでは、一号停留所の保存運動をする野口英世よこはま顕彰会が6回にわたり、野口英世と金沢区長浜とのつながりについて紹介する。
野口英世は、明治32年(1899)年6月16日に横浜海港検疫所に転任の辞令を受け、21日に赴任した=写真。
英世の生涯には、人との運命的な出会いや劇的な出来事がしばしば認められる。英世の赴任した翌日、世間を震撼させた横浜の"ペスト騒動"が起きた。22日午後4時過ぎ、亜米利加丸が香港より長崎・神戸を経て横浜に入港。英世の上司の星野乙一郎検疫医官が本牧沖で検疫を行い、2名の重篤な病人の鼠径部のリンパ腺がはれていることからペスト疑似症と診断。当日非番の英世らを召集して採血させた。この2件の血液を英世が「細菌検査室」で詳細に調べた結果、ペスト菌を検出。ここから長浜検疫所で大騒ぎが始まる。
患者を乗せた亜米利加丸は23日午前5時過ぎに長浜検疫所の桟橋から約4Kmの所に停泊し、1回目の船内と付属寝具、必要な物品などの消毒が行われた(乗組員、船客は上陸して消毒)。24日に2名の新患者が発見されたため、再度、消毒が行われた。23日夕方に1人が死亡したが、2回の消毒によりペストは収束した。このように野口英世や横浜海港検疫所の職員らの懸命の努力によりペストの横浜上陸を防ぐことが出来た。
英世は初めて伝染病研究所の北里柴三郎所長より誉められた。この後、清国の牛荘(ニューチャン)にペストの大流行があり、日本から医師団(10名)を送る要請があった時、英世はその一人に選ばれ現地で大活躍をした。帰国後、念願の渡米を果たすが、その時の船がまた亜米利加丸であったことは何か運命的なものを感じる。
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