横浜大空襲から12日後の1945年6月10日、富岡地区はアメリカ軍から空襲を受けた。今の富岡総合公園辺りには横浜海軍航空隊の基地が、能見台のイトーヨーカドーには日本兵器産業の工場があり、この2つの軍需施設が米軍の標的になったのだ。投下された爆弾は約250発といわれる。
慶珊寺の住職・佐伯隆定さん(78)は、当時を知る数少ない体験者だ。「富岡の空襲は長い間、世間の耳目を集めることがなかった」と佐伯さん。自身の戦争体験を講演会などで折に触れて語ってきた。
空襲の日は薄曇りの暑い日だった。境内で相撲をして遊んでいた小学6年生の佐伯さんは、B29の飛来する音を聞いた。「激しい爆発音と大地を揺らす振動。海に爆弾が落ち、ねずみ色の水柱がいくつも上がるのを見た」と振り返る。裏山の防空壕へ飛び込み、息を殺して爆撃機が飛び去るのを待ったという。
空襲警報が解除され、しばらくすると寺の前にトラックが止まり、戸板などに乗せられた死体が次々に境内に運ばれてきた。「あまりにも悲惨な光景で見ていられなかった」。この日、境内に安置された遺体の数は40体に上るといわれる。
遺体の大部分は、最も被害の大きかった湘南富岡駅(現・京急富岡駅)近くから運ばれてきた。空襲警報が出た時、駅には電車が停車していた。乗客は電車を降り、駅下の小さなトンネルに50人ほどが避難したという。しかし、数十発の爆弾が駅周辺にさく裂。トンネルの前後に爆弾が落ち、猛火と爆風で20人以上が亡くなったという。電車もまた何十人かの乗客を乗せたまま、駅近くのトンネル内に停車していたが、同じように被害を受けた。
「死者は100人を超えるでしょう。私は午後、町の様子を見るため駅まで行きました。死体が横たわり、血痕が残る凄惨な風景と凄まじい異臭にそこから先は進めなかった。本当に怖かった」と話す。
佐伯さんは40歳で住職になった時、境内に戦没者の供養塔を建立した。「あの日のことは朝から晩まで鮮明に覚えている。強烈な印象でしたから」。心から消えることのない戦争の記憶を語り継ぎながら、今年も6月10日を迎える。
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