神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS

消えない富岡空襲の記憶 慶珊寺・佐伯住職が語る

社会

公開:2012年6月7日

  • LINE
  • hatena

 横浜大空襲から12日後の1945年6月10日、富岡地区はアメリカ軍から空襲を受けた。今の富岡総合公園辺りには横浜海軍航空隊の基地が、能見台のイトーヨーカドーには日本兵器産業の工場があり、この2つの軍需施設が米軍の標的になったのだ。投下された爆弾は約250発といわれる。

 慶珊寺の住職・佐伯隆定さん(78)は、当時を知る数少ない体験者だ。「富岡の空襲は長い間、世間の耳目を集めることがなかった」と佐伯さん。自身の戦争体験を講演会などで折に触れて語ってきた。

 空襲の日は薄曇りの暑い日だった。境内で相撲をして遊んでいた小学6年生の佐伯さんは、B29の飛来する音を聞いた。「激しい爆発音と大地を揺らす振動。海に爆弾が落ち、ねずみ色の水柱がいくつも上がるのを見た」と振り返る。裏山の防空壕へ飛び込み、息を殺して爆撃機が飛び去るのを待ったという。

 空襲警報が解除され、しばらくすると寺の前にトラックが止まり、戸板などに乗せられた死体が次々に境内に運ばれてきた。「あまりにも悲惨な光景で見ていられなかった」。この日、境内に安置された遺体の数は40体に上るといわれる。

 遺体の大部分は、最も被害の大きかった湘南富岡駅(現・京急富岡駅)近くから運ばれてきた。空襲警報が出た時、駅には電車が停車していた。乗客は電車を降り、駅下の小さなトンネルに50人ほどが避難したという。しかし、数十発の爆弾が駅周辺にさく裂。トンネルの前後に爆弾が落ち、猛火と爆風で20人以上が亡くなったという。電車もまた何十人かの乗客を乗せたまま、駅近くのトンネル内に停車していたが、同じように被害を受けた。

 「死者は100人を超えるでしょう。私は午後、町の様子を見るため駅まで行きました。死体が横たわり、血痕が残る凄惨な風景と凄まじい異臭にそこから先は進めなかった。本当に怖かった」と話す。

 佐伯さんは40歳で住職になった時、境内に戦没者の供養塔を建立した。「あの日のことは朝から晩まで鮮明に覚えている。強烈な印象でしたから」。心から消えることのない戦争の記憶を語り継ぎながら、今年も6月10日を迎える。
 

金沢区・磯子区版のローカルニュース最新6

横浜市立大学1年の大畑さんに感謝状

横浜市立大学1年の大畑さんに感謝状

教習指導員の命救う

11月23日

「金沢まつり花火大会」の魅力を伝える写真11点を表彰

「金沢まつり花火大会」の魅力を伝える写真11点を表彰

金沢区役所ホームページなどで入賞作品公開

11月23日

納税普及に尽力した個人・団体を表彰

納税普及に尽力した個人・団体を表彰

横浜南税務署管内の4区

11月23日

「横浜10大ニュース」で2024年を振り返る

「横浜10大ニュース」で2024年を振り返る

投票受付中、抽選でプレゼントも

11月23日

初の「よこはま子ども国際平和シンポジウム」で小中学生ら議論

横浜市立大道小学校で5年生児童が弱視を体験

横浜市立大道小学校で5年生児童が弱視を体験

講師は鶴見大学元木教授

11月23日

ウスイホーム金沢文庫店

横浜市金沢区谷津町337 0120-938-171

https://www.usui-home.com/

<PR>

意見広告・議会報告政治の村

あっとほーむデスク

  • 11月21日0:00更新

  • 10月24日0:00更新

  • 10月17日0:00更新

金沢区・磯子区版のあっとほーむデスク一覧へ

イベント一覧へ

バックナンバー最新号:2024年11月23日号

もっと見る

閉じる

お問い合わせ

外部リンク

Twitter

Facebook