野口英世と長浜 第5回 野口英世の苦悩と安らぎ 文/NPO法人野口英世よこはま顕彰会
このコラムでは、一号停留所の保存運動をする野口英世よこはま顕彰会が6回にわたり、野口英世と金沢区長浜とのつながりについて紹介する。
横浜・長浜検疫所。入口脇のねじった形のモニュメント=写真。海外飛躍前に、野口がここに勤務した証である。ねじれは後述の螺旋菌を模したものであるが、彼の苦悩にも見える。世界的にも評価された野口であったが、十分な研究者教育を受けられず、誤りもあった。特にパナマ運河工事者も苦しめた黄熱病原菌の発見には情熱を注いだ。ワクチン開発に成功したと思いつつ、アフリカに行き、同病の撲滅に取り組んだ。しかしワクチンの効果は無く当地で黄熱病にかかり、帰らぬ人となった(1928年)。最期の言葉が苦悩の「私にはわからない」だった。電子顕微鏡開発の少し前のことである。だが螺旋菌(梅毒スピロヘータ)の研究では成果をあげ、3度ノーベル賞候補となった。幼い時の左手火傷も生涯、彼を苦しめた。
苦悩の一方で、束の間の安らぎを得たのは、ニューヨーク郊外の山荘である。妻のメリーも一緒であった。川や湖もあり野口の故郷の猪苗代にも似ており、釣りをしたり油絵を描いたり。今も残る風景画からは、ほのぼのとした安らぎが感じられる。長浜検疫所は、近々MM21地区に移転予定だが、野口ゆかりの建物・資料・記念碑は是非そのまま残してほしいと願うものである。野口の恩恵を受けた中南米・アフリカ諸外国も我が国の判断に注目している。
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