1939(昭和14)年、東京都台東区で生まれた大熊文子さん(85歳)。5人きょうだいの3番目で、2人の姉に加え、妹と弟がいる。父は建設関係の会社を経営する社長。家には専属のお手伝いさんがいたという。
1945年3月10日、東京大空襲で被害に遭い「火が両側から迫る中を、母に手を握られながら逃げた」と振り返る。近くの学校に避難する道中で、墨田川にたくさんの焼けた遺体が浮かんでいるところを目の当たりにした。「今でも、終戦の時期が近づくと不意に思い出す」。悲惨な場面が幼少期の記憶として濃く残っている。
耐える生活
その後は、母方の伯母を頼って家族7人で群馬に疎開。当初は空襲の心配が少ない地方に行くことができて安堵したそうだが、戦時中の苦しい状況なのもあり、伯母からは歓迎されなかった。
「都内から来た私たちはずっとよそ者扱いだった」と当時の状況を語った。きょうだいと共に暴力を振るわれ、食事も満足に分け与えてもらえなかった。そのため、小学校へ弁当を持参できないこともあった。見かねた近所の人に野菜などの食べ物を譲ってもらい、それを家族で分け合うこともあった。当時の心境を「この環境から抜け出したかった」と話す。
東京五輪、良い思い出
中学卒業後はトロフィー等を入れる箱を作る東京の工場に就職。群馬に残した母と都内で暮らすことを目標に必死で働いた。「苦労する母を見て連れ出したかったから」と当時の心境を語る。23歳になる年の1962年、弟と妹と現金を出し合って賃貸住宅を契約。母と4人で暮らすことができた。「64年の東京オリンピックをテレビで皆と見られたことが良い思い出」とにこやか。27歳ほどで再び一人暮らしを始めるが、母が亡くなる1972年まできょうだいと共に金銭面での援助を続けた。
こうした行動の背景には幼少期に母から説かれた「困っている人には手を差し伸べなさい」という教えが生きているという。港南台めじろ団地に住む今でもその教えは胸に刻まれていて、困っている子どもを見かけたら声をかけるようにしていると話す。
「戦争には絶対なって欲しくない」と苦しい子ども時代を過ごしたからこそ、力強く話した。
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