1932(昭和7)年、千葉県に生まれた川野綾子さん(91)。戦時中は両親と4歳下の妹、8歳下の弟の5人家族だった。
太平洋戦争が始まったのは、川野さんが小学1年生の頃。軍所属の獣医だった父は軍馬や軍犬を診るため旧満州へ。同年、弟が生まれたが、周りは「国の役に立つ子が生まれた」とはやし立てた。川野さんは、幼いながらに日常が少しずつ変わっていくのを肌で感じていたという。
開戦から終戦の少し前まで、東京都世田谷区に住んでいた川野さん。戦況悪化に伴い、近隣の町が空襲される様子を見た。「轟音とともに、花火のように爆弾が落ちていました」
直接空襲に遭うことはなかったものの、「ラジオから『敵機来襲!〇〇地区』と流れるたびに、弟と妹をかばって死ぬ覚悟があった」と話す。
疎開先での生活
終戦前、戦火が激しくなり、疎開したのは母の実家があった元石川町(青葉区)だった。親族も集まっており、そこで共同生活を始めた。「食べ物はもちろん、衣類なんかも満足に手に入らなかった。欲しいものがあれば全部、物々交換でした」と振り返る。足りない食料を補うため、畑でサツマイモを育てて飢えをしのいだ。
疎開先では、山内小学校に通っており、わらぞうりを履いて登校していた。「ぞうりは手作り。遊びの一環でした」
また、学校ではなぎなたの授業があり、「先生からは『一人でも多く鬼畜米英を殺せ』と習いました」と川野さん。「先生は洗脳されていたのだと思う。戦争は人を変えてしまう」と話す。
国民にとって苦しい状況が続く中、それでもラジオは虚偽の勝報を流し続けた。「日本が戦争に負けるなんて思ってもいなかった」
「涙も出なかった」
45年8月15日、「天皇陛下から大事なお話がある」と聞き、親族一同で自宅の居間に集まった。同日、正午に玉音放送が流れた。うなだれる親族を横目に、「夢を見ているようだった。ショックが大きくて涙も出なかった」と川野さん。「侵略してきた人たちに殺されるんじゃないかと思っていました」と当時の心境を振り返る。
川野さんは戦争について、「人命が浪費される、これほど愚かな行為はない」と断言する。「戦争以外で争いごとを解決する方法を探して、若い人たちが戦争をしなくて済む世の中になってほしい」と願いを込めた。
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